A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【新事実】(上)幕末の元号は、慶応・延壽・明治だった=西軍の従軍日記にも表記

 作家仲間から、新年に飲もうと誘われた。

「日比谷という苗字だけで集まった会がある。大学教授、大企業の重役、歯医者、医者とさまざまだが、各自の伝承だと、東京の日比谷が発祥らしい。現在は横のつながりがない。学者らに依頼してみたが、巧く結びつけられないようだ。ならば、小説で書いてもらおう、となったようだ」
 かれが所属する作家協会に、それが持ち込まれたという。
 
 幕末には武蔵国足立郡(現・足立区)の郷士で、日比谷健次郎という人物は北辰一刀流免許皆伝だ。武術英名録の《ひ》の欄に、天然理心流の土方歳三、日比谷健次郎と列記されている。明治になると、その彼が日本で初の日独辞典を作っているんだ。ドイツ医学、科学の導入という近代化にはおおいに役立っている。

 丁稚から紡績王になった日比谷平左衛門もいる。

「条件は付けないから、書けるところから書いてほしい、という依頼だ。日比谷健次郎などは、德川方の目線から幕末を書けば、薩長史観とはちがう、新発見が出てくるとおもうよ。勘だけれど」
 足立の日比谷家は、幕末に文人墨客がよく泊っていたらしい。水戸藩ともつながりがある。最近、家屋を解体したところ諸々の資料が出てきて、地元資料館が目の色を変えて蒐集しているようだ。その協力はあおげるとつけ加えていた。

               
【武蔵国・郷士だった日比谷家に伝わる甲冑】

「それは面白いな。書いてみるか。ただ、先祖をよいしょする作品は書かないからな」
 なかでも、日比谷健次郎からみた幕末史は面白そうだ。

 昨年、「安政維新」(阿部正弘の生涯)を発刊しているので、徳川の視点から歴史を見ていくには難なくできそうだ。
 そこからこの9月までに、「桜田門の変」~「戊辰戦争」まで、丹念に描いてみた。面白いほど、新発見があった。どうして、いままで徳川の目線で、歴史が書かれていないのか、と不思議におもえるほどだった。

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 文久2年は、ふつう「文久の改革」と恰好良いものとして伝わっている。だが、長崎に上陸した麻疹(ましん・はしか)が、久光一行によって大阪、京都、江戸に運ばれて、江戸100万人の人口のうち24万人も罹患して死んでいる。大惨事になっていた。

 鹿児島でも、西郷隆盛を大坂で捕縛し、山川港、徳之島に流すとき、かれらは感染病を鹿児島に運んだのだろう。そして、鹿児島でも大流行したのか、久光の実娘が二人、さらに娘婿らが麻疹で死んでいる。
 生麦事件は殺戮だから歴史に記載されているが、麻疹は感染病だから、明確な証拠なしか。

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 もっともおどろいたのは、2年間も無役だった勝海舟が陸軍総裁、隠居の身で剃髪していた大久保一翁が会計総裁、慶喜は15代将軍の在職中は京都で、一度も江戸城に入っていない。江戸城内本丸を知らない連中ばかりが仕切っている。


 しかし、北日本の諸藩・武士階級は、この顔ぶれをみて、「これで徳川政権が完全に終った。慶喜は水戸に帰ればよい。我々で新しい政権を擁立しよう」
 と動きはじめたのだ。

 知能の優れた元幕臣が江戸に多くいるし人材の宝庫だった。かれらは勝・大久保を見限っている。もう徳川家のために、われわれは戦わない。天皇のための戦いをする、と決めたのだ。

 ここで彼らがかついだ天皇とはだれか。

 孝明天皇の崩御(慶応2年12月25日)のあと、睦仁(むつひと)親王は践祚(せんそ)しているが、元服していない。つまり、天皇ではない。摂政として二条斉敬(にじょうなりゆき)がついていた。摂政は天皇の代行ができる。

 ところが、慶応3年12月9日の小御所会議で「王政復古の大号令」が出された。天皇親政をうたう。かたや、摂政・関白が廃止されたのだ。
 なぜ、廃止したのか。これでは京都において天皇の執務がまったくなくなる。

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 東日本の叡智ある人物たちは、ここに目をつけたのだ。「天皇親政ならば、われわれは輪王寺宮(りんのうじのみや)を天皇に擁立しよう」と動きだしたのだ。
 睦仁親王は元服するまで天皇になれないのだから。

 かえりみれば、源平合戦で、幼い安徳(あんとく)天皇が、平家に都合良よく政治に利用されたあげくの果てに、6歳の若さで壇ノ浦に身を沈めて崩御させられた。

 この事例があるので、睦仁親王は践祚(せんそ)していても、元服するまで天皇になれない。

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 上野にある東叡山・寛永寺の貫主(かんしゅ)は、德川家光の時代から200年間、京都の皇子(親王殿下)が就任している。そして歴代、輪王寺宮(りんのうじのみや)としてきた。
 その目的は、
『西の藩が京都で、勝手に天皇を立てたならば、東では輪王寺宮が天皇になり、対抗する』
 と南北朝時代の再来があると、つねに警戒していたのだ。
 ついに、その時がきたのだ。

【つづく】

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