歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【歴史から学ぶ】 明治新政府を震撼させた「武一騒動」はなぜ発生したのか(中)

「殿さまが東京に行くぞ。お引留めせねばならぬ」
 広島城の、竹の丸館から浅野長訓(ながみち)一行が大名カゴで出てきた。
「お止め申す……。お止め申す……」
 庶民の行動が、なぜ巨大な騒動になったのか。

 大きな要因の一つには、倒幕志士たちが徳川政権下で、攘夷思想を煽(あお)り、それが庶民の末端まで浸透していたことにある。

「キリスト教は邪教(じゃきょう)である」
 それが日本人の一般的な考えで、外国人と交わらないというスタンスだった。

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 徳川幕府の下、安政5(1858)年、米艦隊のミシシッピー号の複数の船員が、コレラ患者だった。長崎に上陸した。またたくまに長崎市内の住民に感染し、勢い拡大した。そして、九州地方、中国地方、近畿、京都、さらに江戸城下へと拡大していった。
 「ころっとすぐに死ぬ・ころり(虎列剌)だ」と庶民は恐れ慄いた。

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 すさまじい死者を出した江戸の町では、毎日、蔵前通りだけでも250人くらいの葬式の列が通る。火葬場は棺桶があふれた。
江戸と京都を結ぶ東海道だが、上り下りとも人通りが途絶えた。江戸の町、宿場町など、諸国の商いが極端に冷え込んだ。まさに、前代未聞の大惨事であった。


 写真 : 『安政箇労痢流行記』(国立公文書館所蔵)の口絵「荼毘室(やきば)混雑の図」  

 文久2(1862)年にも、ふたたびコロリが大流行したのだ。
「異人が井戸に毒を投げ込んだ」といううわさがひろがった。正確な統計はないが、安政5年、文久2年のコロリの死者は合わせると、江戸だけでも約10万人~30万人、それ以上の記録が残っている。

 日本人は、この病魔を持ち込んだ外国人に恐怖心をもったのだ。

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 かたや、開国して以来、物価が高騰し、農民の副収入だった綿糸が輸入品にとって代わり、農民たちの生活がいっそう圧迫されてしまった。
「聖地の日本を犯した異人を排斥すべきだ」
 攘夷派の主張はつよい説得力を持った。
 日本人のほとんどが攘夷運動に賛成だった、と言っても過言ではなかった。と同時に、外国人排他の思想がふかく根を張ってしまったのだ。
            
 まさに、外国人は凶兆(きょうちょう)であり、庶民に災いをおよぼす存在だった。

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 幕府が瓦解したあと、明治新政府になっても、一般庶民の攘夷思想が消えておらず、コロリの恐怖も冷めやらず、明治新政府の開化策にたいして、疑問と反発があった。
「おいおい。薩長は攘夷じゃなかったんか。なぜ、開化政策なんじゃ」
 その不信感がつよかった。

 新政府は近代化を急ぐあまり、各省庁で、「お雇い外国人」を数多く雇った。かれら外国人の指導の下、言われるまま、日本の政治が動いているようにみえたのだ。
「太政官は、異人が政事をする取扱い処である」
 この流言は、庶民たちのただの空想ではなかった。

 わが国の政治家たちは、西洋の文化と技術を持ち込んだ「お雇い外国人」に、すべて牛耳(ぎゅうじって)られて、言われるままの下僕に映ったのだ。
「こんど来る県知事は、攘夷とうそを言った奴らだ。国を売った奴らだ。異人の手下だ。ろくなことを考えおらんぞ」

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 群衆は口々に叫んだ。
「わしら領民はだれが守ってくれるのだ。新政府の県知事か。ちがうだろう。怖い異人から守ってもらえるのは、お殿さまだ、藩主さまだ」
 農民は260年余にわたり、年貢を出す代わりに、身の安全と村の平和を守ってもらっていた。その意味で、武士はありがたい存在だったのだ。

「殿様が、東京に強制的に奪われてしまう。残された、わしら庶民はどうやって自分を守るんだ。領民は、だれが守ってくれるのだ。武士しかいないではないか」 
 各地とも、武士社会をなくす廃藩置県へのつよい反発と抵抗になったのである。
「殿さまは、下々を見捨てた」
 そう叫ぶ者もいた。

                

 「大元師陛下御還幸日比谷原凱旋門図」 楊洲延保/画 江戸東京博物館蔵

 ここで見落としてはならないのが、一か月前の明治4年5月23日に制定された『戸籍法』である。明治新政府が、国民の成人男子を「懲役」にとるために、戸籍を整備した。
 徳川時代は、お寺の人別帳であった。これでは徴兵検査ができないからと、法改正したものだ。

 徳川時代から、年貢は村ごと単位で決められていた。庄屋(名主)がすべてにその責任を持っていた。
 ところが、この法律で名主・庄屋が廃止されたのだ。農民たちは戸惑った。年貢の納め方のかたちが見えなくなってしまったのだ。

 新政府は、新たに村々の庄屋たち6-8人を一つにした戸長(こちょう)・副戸長がおかれた。そして、県庁指導で、大庄屋などから戸長が選ばれていた。
(現在でいえば、集落(郷)単位でなく、大枠の町長や市長の制度がうまれた)
 戸長はあらたな村の支配層となった。

「こやつら戸長は、政府の指示で、娘と牛を徴収して、外国人に引き渡す役だ。まちがいない」
「そうだ。こんどできた戸長は、政府のまわし者だ。わしらの敵じゃ」
 かれらは白い目でみた。
「県の役人と戸長はつるんで、2万円(現在・400万円)がもらえるらしい、東京の政府から」 
 騒動のなかで、戸長制度への不信感が増幅していく。

 8月4日からの騒動が3日、4日とつづくほどに、群衆のなかには竹やり、鉄砲、鎌、鉈(なた)などを凶器をもつ者もいた。
 群集心理が昂じると、暴徒化してしまう。「娘と牛を渡す役だ」とうわさになった戸長たちが狙われたのだ。激昂し暴徒化したかれらは、新政府への手先だと決めつけた戸長宅で、住居や蔵に連続放火した。
 各村々に説諭書を持ってきた県庁の関係者らに、激怒した群衆は竹やりで突き刺し、殺傷した。ついに、各県庁の役人は、新政府に軍隊の出動を要請した。各鎮台(ちんだい・国内の軍事拠点)からやってきた制服軍人が、城下の数万の群衆にたいして解散を叫び、発砲した。
「なんだ、空鉄砲じゃないか。腰抜け軍隊じゃ」
 竹やりや鎌、猟銃をもった群衆が、そのようにあなどった。
「実弾で、殺してもよい」
 戊辰戦争で実戦なれした軍人だから、こちらも気が荒かった。
「武一騒動」はとうとう血で洗う武力闘争に変化していったのだ。広島県から、さらに備中福山県、姫路県、他にも4、5か所でも、軍隊による発砲がおこなわれた。

 徳川時代には『農民は国の宝だ』という認識から、農民一揆に銃の鎮圧は原則・厳禁だった。この武一騒動の明治4年から、県庁側はすぐに鎮台に軍隊出動を要請するかたちが生まれたのである。
 現代の香港問題もそうだが、軍隊の民衆鎮圧は、世界史からみても、決して望ましいものではない。
 武一騒動という幅広い反政府活動が、銃血に染まった惨事になっていくのだ。
                                           【つづく】

    

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