A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【歴史から学ぶ】 明治新政府を震撼させた「武一騒動」はなぜ発生したのか(上)

「お殿さま、お止め申す…お止め申す」
 群衆が大声で口々に叫んだ。
 それは広島藩の前藩主・浅野長訓(ながみち)の一行が、東京に向かう日のできごとだった。
「お殿さま、広島を見捨てないでくださいませ」
  かれらは広島城の城門から出てきた長訓の駕籠をとりかこんだ。
 その数は増えるばかり。すぐさま数千人、さらに数万人規模まで膨らんできた。長訓一行が進むにすすめない状態に陥ったのである。

 予定では、広島城の長訓が住んでいた「竹之丸」から、南御門を出て西国街道を西にすすみ、水主町の船着き場から御座船に乗る。そして、宇品沖で停泊する本船に乗り込む。兵庫湊(神戸港)では大型蒸気船を乗り換えて、横浜にむかうものだった。

                 *

 この広島城下の群衆が、明治政府を震撼させる大事件になるとは、この段階で、おそらくだれも想像していなかっただろう。
 県内16郡の庶民にとって、長訓は11代藩主時代に幕末の政治に関与し、頼りになる存在だった。と同時に、民衆想いで好かれていた。
 山県郡、高田郡、佐伯郡を筆頭に、大勢の農民があつまった。当初、純朴に、お世話になった殿さまに、ご餞別を渡したい、という人々が多かった。そうした史料が多い。

 数万人千規模の群衆が、広島の1か所(長勲のカゴ)へと、われ先に、と競うと、異様な雰囲気に陥ってくる。
「いま、ここで群衆を割って、無理して押し進むこともないだろう。出発の日を改めよ」
 人柄のよい長訓は、つきそう供に延期を命じた。

 県庁の役人にすれば、東京の新政府に長訓公の出発日を伝えているから、予定変更は落ち度になると思い、群衆らに帰村を叫びはじめた。
「散れ、散れ。むらに帰れ」
 多勢に無勢である。
「おどれら、役人がなに抜かす。政府のまわしものじゃないか」
 群集は役人の態度に反発して、解散も、帰村も応じなかった。

  後世の歴史学者、歴史研究者たちは、この事件のあとづけで、騒動の首謀者とされて悲運な処刑をされた人の名をとって、「武一騒動」という。
 
                 *      

「おらは聞いたぞ。新政府の太政官(政治家)は、異人の政治を取り扱うところだって。西洋人は女の血を絞りだして、それを毎日飲み、牛肉を食べているそうだ」
 群衆のなかで、誰がそう叫んだのか、いまでは判明できない。

「なんでも、新政府は異人の言われるままらしい。こんど藩主さまに変わってくる県知事が、戸長(こちょう)に、女子15歳から20歳まで3人、牛を1頭つけて差し出せ、と命令したようだ」と尾びれがつく。
 この流言飛語はとんでもない惨事をまねくのだ。

 悪いうわさが広島県内を皮切りに、4日後には瀬戸内をわたり、四国に上陸する。流言飛語が中国地方・四国地方にあっという間に拡散し、新政府に反発して暴徒化した。

 「武一騒動」を超えた、『旧藩主引留め一揆』となったのである。


 8月8日 伊代・大洲  (現・愛媛県)で、藩主(加藤泰秋)の引留め、租税軽減要求、蘭方医の襲撃がおきた。

8月9日 筑前  (現・福岡県)で、藩主(黒田長知)の留任要求、年貢の減額要求

8月12日 美作・津山   (現・岡山)で、権大参事の暗殺

8月15日 伊代・松山   (現・愛媛県)で、藩主(久松定昭)の引留め、大庄屋・庄屋襲撃、帳簿類の焼却

8月16日 美作・真嶋   (現・岡山)で、藩主(三浦顕次)の留任要求、砂鉄稼小屋の焼払い


 さらに、伊代・小松
      伊代・今治
      出雲・母里
  と、8月中に「旧藩主引留め一揆」が伝播していった。

 9月8日には讃岐・高松(香川県)の藩主(松平頼聰)の出船の阻止、豪農・豪商の焼き討ち
         長門・豊浦(山口県)
         但馬・久美浜(兵庫県・京都府)
         備後・福山(広島県)
         備中・倉敷(岡山県)

  9月中には、本州側の各地に拡大した。新政府に反発し、焼き打ち、打ち壊しなどがおこなわれていく。

「10石当たり、女子15歳から20歳まで3人、牛を1頭つけろ、と言われている」
 各地でその数がちがっても、西洋人(異人)は、血を吸って生きている、とまことしやかに流言が拡散していた。

 10月6日に入ると、石見・浜田(島根県)は一向宗の擁護、邪宗(キリスト教)反対、増税反対と拡大した。宗教とからめた外国人の排斥運動である。

         因幡・鳥取(鳥取県)
         播磨・姫路(兵庫県)
         但馬・生野(兵庫県)
         播磨・山崎(兵庫県)
         長門・清末(山口県)

 このなかには県官殺傷、大庄屋宅焼き打ち、高札破却など、まさに暴動そのものがあった。

  11月2日には伊予・宇和島(愛媛県)
           備前・岡山(岡山県)
  12月に入ると、土佐・高知(高知県)、美作・豊岡(兵庫県)と、年内に、ここまで発展したのだ。もはや、全体を「武一騒動」とくくれない、大規模な一揆、反政府活動になったのだ。

                 * 

  明治4年7 月 14 日の「廃藩置県」の詔書とはなにか。全国の302藩を廃して、府県を置いたことである。
 これにより、源平の平安時代から1000余年つづいた武士支配が、完全に終結した。そして、中央集権的な統一国家が確立されたのである。

 ヨーロッパでは、貴族社会の崩壊まで100年余りかかっている。しかし、日本では倒幕のあと、わずか4年間で封建制度の身分が崩壊した。
 欧米の各新聞は、日本発として、その奇跡的なスピードの速さに驚愕(きょうがく)して報じていた。

 しかし、廃藩置県の直後、民衆はなぜ封建の武士社会の継続を望んだのだろうか。

                          【つづく】

「歴史の旅・真実とロマンをもとめて」トップへ戻る