歴史の旅・真実とロマンをもとめて

明治時代~昭和中期の広島⑤ 天下に先立つ洋紙製造・浅野長勲(下)

 明治5年2年の「銀座大火」のときウォートルスから提案された、製紙工場が稼働する明治7年8月まで、約2年半の歳月を要していた。

 英国人のジョン・ローゼルスの指導は親切だが、言葉が通じない。叱咤激励(ししったげきれい)する。だんだんと手馴れてきた。ところが、洋紙の需要はさしてない。注文は来ない。倉庫には洋紙が滞留するばかり。

 かたや、職工は元武士でロスが多く、効率の意識がない。さらに新たな問題が起きた。真っ白い洋紙ができないのだ。大金1000円かけて井戸を掘ってみたが、赤く濁った水だった。結局、600坪の貯水池を作り、近くの隅田川?(掘割かもしれない)から水を引きいれたのだ。そして、無漂白の紙ができた。


             【神戸大学経済研究所・新聞記事文庫の資料より】

 新聞の枠組み : 報知新聞 1933.4.10 (昭和8)

『我国における製紙事業発達のあとを見るに、その初めて洋紙製造の計画を立てたのは実に明治五、六年の頃である、
そして明治五年二月、旧広島藩主浅野侯が大蔵省(土木)雇イギリス人技師ウォーター氏の意見に基づき、英国から機械を輸入し、東京日本橋区蠣殻町に工場を設け社名を有恒社と称したのが、我国が洋紙製造の濫觴(らんしょう 大河の源流)とされている』

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 襤褸(ぼろ・繊維)を使った破れにくい洋紙がやっとできた。ここからスタート。ところが、教師(指導者)ジョン・ローゼルスとの雇用契約の1年が経ってしまったのだ。
 浅野長勲(ながこと)は6カ月の雇用延長を申し入れた。そして、1/4の給料を増していた(月250ドル)。ひとをつかうのが実に上手だ。

 元武士の職工たちが技術を覚え、手が慣れるほどに、ほとんど売れず、倉庫は在庫が溜まる一方だった。
「どんどん積んでおきなさい。周辺は空地だらけだ。倉庫は幾らでも造れる」
 長勲はあせらなかった。
 耐忍不抜(けんにんふばつ)の精神だ。それは意志がきわめて強く、どんなことがあっても心を動かさず、じっと我慢して堪え忍ぶ人をいう。

 幕末には大政奉還、新政府樹立という修羅場をくくってきた大物はちがう。先見の眼があるというか、時代の先読みができるのか。
 苦労の末に、幸運を引き込むのだ。


 イギリス人製紙技師のジョン・ローゼルスは、紙の需要がないし、月給は水増ししてもらったし、特殊技術「透かし」技法を有恒社の職工たちにおしえたのだ。現代でも使える紙幣の透かし技法である。かれにすれば、おおかた遊び心だろう。

 紙に浅野家の家紋(写真)を透かして、大量生産のロール紙で巻き取ることができたのだ。いろいろな透かしデザインで楽しんでいた節がある。


 一流の建築設計者・トーマス・ウォートルスが世話してくれただけに、ジョン・ローゼルスは、とてつもなく優秀な製紙技師だったらしい。
 それはドイツの透かし技術を超えるほどだった。 

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 明治9年から有恒社に光明が差した。大蔵省紙幣寮(印刷局)から、証券印紙の原紙の委託がきたのだ。
 これは長勲のみならず、元武士の職工、浅野家の関係者まで、最大の喜びと、感動だろう。万歳をしたかもしれない。なにしろ、国家の税収に関わる「証券印紙」の洋紙が、上海ものから国産に変わったのだ。近代化へすすむ日本人の、最大の誇りのひとつとなったのだから。

 有恒社の製紙技術の優秀性は、見るひとはしっかり見ていたのだ。


 明治10年に西南戦争が勃発した。

 新聞、雑誌の戦記ものは飛ぶように売れる。新聞の購読数がうなぎのぼり。雑誌は増刷つづき。西南戦争が活版印刷が大ブームを起こしたのだ。紙幣すらも、増刷つづきだった。
 紙市場は好況を呈し、メーカも問屋在庫も底払いしてしまった。

 蠣殻町の有恒社の工場前には、早朝から、紙を買いもとめる業者がならぶほど盛況となった。サイズとか、品質とか、まったく問わず、洋紙ならば、ともかく買いたいのだ。


 有恒社が初期のころ、赤茶けた洋紙が倉庫に滞留していたが、深川の日本一の燐寸(マッチ)製造所が、こん包用に、と全部まとめて買い求めていった。

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  大蔵省印刷局・抄紙部(しょうしぶ)は、紙幣の偽造防止から高度な「透かし」製紙が必要で、アメリカ、ドイツに製造を委託していた。それらの紙幣に耐久性がないという欠点があった。

 明治12年から国産「透かし」に取り組んだ。
 印刷局は上質な水が豊富な王子(東京都・北区)に独自の工場を建てた(現・王子製紙の一角)。極秘の「透かし」技術の開発に、白羽の矢が有恒社にあたり、技術提供をもとめてきたのだ。

「これで、念願の国家に寄与できる。紙幣は国の宝だ」
 浅野長勲は、明治新政府を樹立し、国家の源である紙幣づくりに寄与したのである。

 私費を投じてから、7年間かかっている。

 紙幣は機密性が高いことから、長勲の称賛はさして語り継がれていない。

 それよりも、洋紙業の発祥の地は大阪だの、王子だの、京都だの、神戸だの、と全国各地に史跡表示板が目立つ。長勲は「国家に尽くす」という一念で、激動の時代を生きてきた。かれのおう揚さからか、そんなことはどうでもよいのだろう。


《トピック》

 浅野長勲は昭和12年(1937年)2月1日、94歳の長寿をもって死去した。広島の人たちは、芸州広島の最後の良いお殿さまだったのう、と涙したという。
 広島の練兵場には、葬儀に3万人が参列した(当時の中國新聞)。

 ちなみに国葬だった山形有朋は、一万人のテントを用意していたが、わずかに千人だったと伝えられている。
 王子製紙を興した渋沢栄一の会葬者は、3万人を越え、その死を惜しんだといいます。(大正時代の童謡「赤い靴」、「青い目の人形」は、日米親善につくした渋沢の功績として光り輝いています)
 浅野長勲や渋沢栄一は、私欲をすてて近代国家づくりにまい進し、なおかつ庶民に親しまれている。
 それが双方の会葬者が3万人の数に表れているのでしょう。
 

《有恒社のその後》

 同社は成長産業だったが、蠣殻町が東京府の道路拡張工事で、製紙工場は立ち退きを求められた。浅野長勲はここで製紙業から手を引いた。
「それは実にもったいない」

 有志が浅野家から社名をもらい、東京・亀戸に新会社「株式会社有恒社」を設立した。製紙機械はそちらに移った。
 当然ながら、紙幣の「透かし」技術は国家の重要機密だから、継承されなかった。

 紙業は年々消費が上昇する産業だったが、大正関東大震災の翌年、同社は王子製紙と合併している。


 私たちが使う紙幣には、偽札防止の透かし、という特殊技術がなされている。世界最高水準の紙幣である。
 それは有恒社の技術が源流である。
 国家繁栄をおもう浅野長勲が、私費を投じて洋紙工場を造った。この功績は永くたたえていきたい。

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