歴史の旅・真実とロマンをもとめて

明治時代~昭和中期の広島④ 天下に先立つ洋紙製造・浅野長勲(中)

 明治近代化の象徴のひとつ「銀座煉瓦街」、「銀座ガス灯」がある。その設計者がトーマス・ジェームズ・ウォートルス(Thomas James Waters,で、とても著名である。
 ウォートルスが、長勲の私邸に訪ねてきた。


「製紙工場を建てる。建築のお知恵ならば、お貸しします。私は、製紙について知識がありません」
「製紙工場のどんな知識でも結構です。おしえてください」
「洋紙の原材料は、木材パルプ、藁パルプ、これらに紙屑、マニラ麻,木綿、麻襤褸(ぼろ)などを混ぜて、紙すき機械で梳(す)いてつくります」
「質問ですが、ボロというと、着物の切れですか」
 古綿やぼろ布から、純白の洋紙ができる。それはおどろきでしかなかった。
「そうです。とても、重要な役目の材料です。紙の材質は、植物性の繊維(せんい)です。ただ、私はイギリスの学生時代に、机上で習っただけの知識です。経験や体験はありません」
「1枚の紙がえらく複雑ですね」
 長勲は、室内の障子(しょうじ)を透かして、じっとみた。

 陽光が透き通ってくる。この和紙よりも、一枚の洋紙のなかが複雑なのか。一方で、製紙業の重要性を認識していた。


* 写真「トーマス・ジェームズ・ウォートルス」は、ネットより

「輸入した製紙機械を据え付ける、そのくらいならば、私の実弟をイギリスから呼び寄せられます。機械は水平に据えつけないと、故障やトラブルのもとになりますから。最初が肝心です」
「それはありがたい。お願いします。渡航費用は、この浅野家から出させてもらいます」
 長勲は、一歩も、二歩も前進だと思えた。

          *

 家令の中野が、横浜などで工場建設費など、見聞してきたところ、10万円くらいだろう、と概算の費用がつかめた。
 (明治6年の国家予算は4、659万円)
 銀座竹川町の紙商人の杉田が、横浜の貿易商を介し、正式に見積もりを取った。

 イギリス製の抄紙機(しょうしき)は、60インチ長網多筒式(乾燥筒は0.91mφ12筒)で、購入代金は4万2000円は、前払い条件だった。
(ほんとうに新品か。中古ではなかろうか。黄色人種のアジア人をあなどってないだろうか)
 長勲は不安だった。機械を据えて紙を梳(す)くまで、担保できないだろうか、と思案していた。

 それをウォートルスに相談してみた。すると、英国領事館(当時・築地居留地)が紹介されたのだ。

「浅野さんが、製紙機械を据え付け、紙を梳(す)くるまで、私どもで預かりましょう」
 公使がイギリス・機械メーカーに担保してくれたのだ。
「安心です」
「お金を預かるのですから、利子をつけます」
 保管料を覚悟した長勲は、運用利息までもらえる、という資本主義の金融システムにもおどろかされたのだ。

 機械の据え付けには、イギリスから来日した実弟のトーマス・ウォートルスが当たってくれた。その助手として、国内で多少は機械知識のある岡田楽三郎を月給30円で雇った。
 
 製紙機械工場の建設ができても、運転・生産・在庫管理・販売というソフト(技術)には、日本人のだれもが経験ない。
 たちまち、機械はうまく動かせない。木綿や麻のぼろ布の比率も皆目見当がつかないのだ。
「イギリスから技術者一人を雇う必要がある」
 それにはいくつもの省庁の許可が必要だった。

 長勲や家令は、その嘆願で、外務省や各省庁をまわってみた。

「お雇い外国人は官吏のみです。民間では前例がありません。かれらは高額な給与です。貿易収支が赤字のいま、民間に対応できません」
 そんな対応は現在もおなじ。

 技術者がいなければ、有恒社の製紙機械は運転できない。
「ここであきらめられない。困ったときは、あのひとだ。土木技師のウォートルスさんだ」
 銀座煉瓦街づくりの設計・監理で、ウォートルスはとても忙しいはずだ。

 ウォートルスは、長勲の熱意に応じて、浅野家に足を運んでくれた。

「製紙の製造に精通した外国人を、ひとり雇いたいのですが。うまい手はありませんか」
 長勲は機械をあつかえない現況を説明した。

「そうですね。私がイギリスの知人に声掛けして、製紙技術者を探してもらいましょう」
「ぜひ、お願いします」
「適任がみつかれば、表向きは土木技師の助手として、日本に呼びましょう。それならば、日本政府からクレームは来ないでしょう」
「重ねがさね。ありがたい。もちろん、イギリスからの渡航費、毎月の給料、一流の築地ホテルの滞在費、いっさいはこの浅野家が出させてもらいます」
 成功すれば、高額な費用でも、生きたお金だ。
 ウォートルスは快諾してくれた。

           *

 イギリス人の製紙技師ジョン・ローゼルス(John Rogers)でが来日した。かれはおもてむき技術者でなく、「教師」の雇い入れとして契約書を作った。
 のちに、渋沢栄一も王子製紙においても、おなじ方法をまねて外人技師を雇い入れた。

①  雇用期間は明治7(1874)年の3月~12か月間
②  毎月の給料は200円(あるいは200ドル:当時は1円金貨=1ドルで、同一の金含有量である)
③  教師として雇っている間は、浅野家が賃貸する

 浅野長勲の名義で、東京府知事・大久保一翁(おおくぼ いちおう、写真・右)に許可書を提出した。大久保はかつて幕臣で、阿部正弘に抜擢された有能な人物である。


 鳥羽伏見の戦いのあと、謹慎する慶喜将軍から、大久保はトップの会計総裁に任命された。勝海舟よりも実力があり、江戸城無血開城の実質の立役者といわれている。

「浅野さん、製紙工場は大賛成です。安政のころ、阿部正弘公が蕃書調所(ばんしょしらべしょ・後の東京大学)を創設された。そこでは西洋文明の書籍を翻訳し、イギリスから購入した活版印刷機も導入しました」
 大久保はくわしい。さらに、こう言った。

「輸入洋紙は高価で、日本中に文化を広めるには難でした。浅野さんが有恒社を起ち上げ、製紙技術者を招聘(しょうへい)してくださった。近代化には洋紙と印刷がとても大切です」
「ご理解、ありがたい」
「あとは府知事の私が、大蔵省、外務省、文部省の許可を取ります。私の役目とさせてください」
 大久保がいっさいの許認可を引き受けてくれたのだ。
            
           * 

 明治初期は、蠣殻町のまわりの大名屋敷は、すべて取り壊されて茶・桑畑である。製紙工場の騒音は問題にはならなかった。

 長勲は人材登用の能力は抜群だ。執政・辻将曹とか、神機隊とか、浅野学校(現・修道中高)の創設とか、下級にあっても人材を育てることに喜びを感じる人物だ。

 有恒社は、元広島藩士の失業士族を大勢雇い入れた。全員が機械など触ったことがない。手先の器用な江戸職人をつかえば、物覚えがはやく、軌道にのるだろう。長勲は不器用なかれらが育つまで、じっと待ち続けていた。
 なにしろ、指導者の技術用語はすべて生の英語だ、理解すらたいへんである。

 記録によると、売れる製品ができるまで、竣工から1年以上かかっている。
                          
                【つづく】 
            
《トピック》
 孟子の「恒産あれば、恒心あり」(一定の職業や財産を持たなければ、しっかりとした道義心や良識を持つことはできない)、ここから社名を有恒社(ゆうこうしゃ)となづけた。

 長勲は明治に入り、失業した広島藩士の困窮に胸を痛めていた。製紙業を興し、脱落士族に救いの手を差し伸べた。人間は、単なる施しや寄付では心がいじけます。しっかりした仕事を与えてあげる、と考えたのでしょう。    

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