歴史の旅・真実とロマンをもとめて

明治時代~昭和中期、広島の近現代史をひも解く ①

 ことし(2020年)の秋をめどに、明治・大正時代を背景にした歴史小説の執筆依頼があった。主人公は実業家である。となとる、直接、広島に関わる内容ではない。倒幕におおきく関わった広島藩も、戊辰戦争で、その主要な役割を終えたという認識が私にはあった。

 ただ、資料を読みあさっていると、浅野家とか、明治の広島とか、折々に出てくる。「広島の人は、きっと知らないだろうな」。
 広島に関係するところを列記しながら、広島の近現代史のいったんをひも解いてみたい。

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 鈴木商店、伊藤忠、日比谷商店と聞いて、なにを連想するでしょうか。ピンときましたか。

 鈴木よね(女性)、伊藤 忠兵衛 (いとう ちゅうべえ)、日比谷平左衛門(ひびや へいざえもん)に共通するのは、行商あるいは丁稚小僧から、やがて明治、大正時代に総合商社の源流をつくった人たちである。
 いっとき三井、三菱の取扱いを上回っている。

 鈴木商店は神戸が本社である。日商岩井、神戸製鋼、帝人、サッポロビール、IHI、昭和シェル石油など、これら企業の源流は鈴木商店にたどり着ていく。
 伊藤忠は大阪の商人です。やが伊藤忠商事、丸紅へと進化していく。
 日比谷商店は東京だったことから、大正12年の関東大震災で大打撃を受けて衰退する。


 この三つの商店に共通する点は、徳川幕府が結んだ「安政の5か国通商条約」で、世界へむけた輸出入で一気に拡張したことである。つまり、通商条約の良さと価値をくみ取り、尊王攘夷派には命を狙われながらも、その時流に乗ったことたった。

 日本史のなかで、安政通商条約は不平等だと頭から、薩長史観で洗脳されている。しかし、ほんとうに攘夷が正しくて、貿易が悪だったのか。
 鈴木商店、伊藤忠、日比谷商店の傘下の企業、あるいは三井・三菱などもさかのぼれば、横浜の開国にたどり着く。この安政の5か国通商条約がもしなければ、日本はこうした総合商社を生み出さないばかりか。インド、清国のように植民地になっていた可能性は高いだろう。
 日本の発展にとても重要な位置づけにある。
 
 そこで幕末・明治初期の横浜を庶民の目で、調べていると、「富貴楼」(ふうきろう)という料理茶屋の関係資料に目が留まった。女将のお倉はもと遊女である。芸妓から、明治の政治家たちが、横浜・富貴楼に集まった。現代でいえば、赤坂料亭で、政治家が密談するようなものだ。なぜ、富貴楼か。

 理由は三つある。

① 女将のお倉が魅力的だった。
② 江戸城が皇城となり、大名の上屋敷、中屋敷などが容赦なく取り壊された。(練兵場になった・現在の皇居前、日比谷公園などは老中など役宅だった)。壊しすぎてて、密会場所がなくなってしまった。
③ 横浜港には英仏などの商人、軍人が洋館建てなど、西洋文化を持ち込んだ。白人崇拝から、洋風なハイカラな人間気取りになれた。

 開港当時、安政5(1859)年6月2日には、横浜の人口がわずか500人の農漁村です。明治3(1870)年は4万人を超えている。

 東京・大阪が戊辰戦争のあと景気が沈滞しており、全国で横浜の景気が一人勝ちだった。

 当時の神奈川県知事の井関盛良(いせきもりとめ)が、富貴楼のお倉の前で、
「横浜は、東北随一の仙台はもう抜ける。このさき浅野さまの御城下の広島、加賀100万石の金沢、尾張名古屋だって抜いてみせる」
 と酔うからなず話していたという。

 井関盛良県知事が口にする大きな広島は、昭和20年の原爆で廃墟になったから、現存しない。実感がわかない。
 明治といえば、薩長閥による政治だった。政治・経済・文化を支配した。薩摩(鹿児島県)や長州(山口県)が、西日本を凌駕している。多くのひとが信じて疑わないだろう。

 ところが、明治の芸妓の証言から、「浅野さまの御城下の広島」が広島が西日本随一の都市だったのだ。 

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 昨年11月に、RCC(中国放送)ラジオの2時間生番組のなかで、原口泉さん(鹿児島大学名誉教授)が、「広島藩はおおきな藩だった。広島が倒幕に動かなければ、薩摩藩はなにも出来ませんでしたよ」とくりかえし、語っていた。

 それを聞きながら私は、内心、番組へのお世辞かな、と思っていた。薩摩藩は77万石だし(実質は35万石程度)、広島よりも表向き石高が多いし……。
 横浜の富貴楼のお倉の証言から、浅野家の絶大さから倒幕の主体になったのだ。原口さんが繰り返した、「広島藩は、おおきな藩でしたから」という言葉がより真実味を持ってきた。日本中が注目をもって、浅野家の動きを見ていたのだ。

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