A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【歴史エッセイ】② 江戸城(徳川家)・皇居(天皇家)、いったいだれの財産なの?

 歴史作家の目で、とき折り、江戸城(皇居)の周辺に出むくことがある。

 安政時代の「江戸大地図」には、江戸城が『御城 西御丸』である。徳川幕府が倒れたあと、明治時代の「実測東京全図」では『皇城』である。そして、太平洋戦争が終結したあと、昭和の地図は、『皇居』と表示されている。

 わずか150年余年で、御城、皇城、皇居、と呼称がちがってきている。

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 江戸城はもともと大田道灌(どうかん)が築城したが、上杉氏に暗殺された。上杉、北条氏の支配になった。さらに、豊臣秀吉の小田原城攻めのあと、德川家が駿府から江戸城に入ってきたものだ。そして、お城は段階的に拡大されて、周囲4キロの日本最大の面積の城郭となった。

 約265年間は徳川家の財産だった。

 戊辰戦争のさなか、徳川幕府が無血開城し、新政府軍に接収された。天皇が東京に移り住んだ。それを奠都(てんと)と言い、宮城(きゅうじょう)となった。
 この段階で、江戸城の所有権が徳川家から天皇家に移ったのだろうか。そこらは、どうなっているのか、とわたしは単純な疑問をもちつづけていた。

 こんな素朴な疑問が、歴史の楽しみ方のひとつでもある。


 わたしは50代、60代のころ、年2回はフルマラソン大会に出場していた。おおくは3時間40分台のタイムだった。登山で足腰が鍛えられた脚力があったのだろう。

 雨以外の毎日は、平均して20キロくらい走っていた。ときには自宅の葛飾から皇居まで走り、そのまま皇居一周約5キロをまわり、葛飾にもどってくる。約40キロで、フルマラソンの距離くらいである。
 道々、信号で止められるのは面倒だが、都心部の変化はけっこう楽しめたものだ。
 

 ただ、第2回東京マラソンに出場したあとは、抽選に当たらず、しだいにマラソンから遠ざかってしまった。いまは止めて、日々のウォーキングていどだ。
 それでも、ある種の親しみから、銀座、日比谷にでむく用があると、ぶらり江戸城周辺を散策することがある。

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 お濠には四季折々の変化がある。かたや、そうした光景がかつての江戸城の大奥とか、江戸城の無血開城とか、なにかと私を歴史のなかに導いてくれるのだ。
 それが歴史作品の執筆上の関心事や着想にもつながったりする。

 江戸城の無血開城といえば、戊辰戦争のさなか、三田の薩摩屋敷における勝海舟と西郷隆盛の話合いでおこなわれた。その直前には、山岡鉄舟が駿河の国へ出むき、西郷との会談で、江戸城の開城の下地が作られていた。
 よって、江戸城は戦禍がなく、徳川家から新政府軍に引き渡された。これが通説である。

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 通説はとかく嘘やつくりものが多い。あるいは、ねつ造がまかり通っている。そういう目で、歴史を読み解(とく)くと、あらたな発見がうまれることがある。

 江戸城の無血開城は、その実、大奥の篤姫(あつひめ)や和宮(かずのみや)、このふたりを中心とした上臈たちの努力で、戦禍がまぬがれた、とわたしはおもっている。
 もし、大奥が戦場になれば、彼女たちの大切な豪華なきもの、家財、日常品がことごとく焼失してしまう。
 女性としてはゼッタイに許せない、というつよい心理がはたらく。

 徳川幕府のなかで、代々、大奥の正室はつよい権限をもっていた。正室の顔は、平伏する老中すら直視できなかったという。
 大奥の女性権力者は、たやくすく男・勝海舟や西郷たちの下級の者どもに従わなかっただろう。

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 鳥羽伏見の戦いのあと、江戸にもどってきた慶喜が、家茂の正室だった和宮に、京都の朝廷への取り成しを頼んでいる。孝明天皇の妹だった和宮しか、江戸城を守れないと判断したのだろう。
 当然、島津家出身の篤姫は、家臣の西郷につよい圧力をかける。

 この段階において、徳川幕府はまだ無力でなかった。小栗上野介や榎本武揚などは戦意は高い。勝や西郷は、篤姫と和宮の了解が得られなければ、勝手に江戸城の開城など、男どうしで決められなかったはずだ。
 
 現代でもそうだが、居住や転居にたいする妻・女性のこだわりは、男性の非ではない。女性の意見で大半が決定される。つまり、お家主義の最大の権限は女性にあるのだ。
 女が影で男を動かす。時代が変わっても、歴史が転換しても、規模の大小も問わず、女の真底の強さは変わらないだろう。
 
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 江戸城(皇居)は、はたしてだれのものか、とわたしの思慮はもどってきた。大田道灌の子孫か。徳川家か。天皇家か。この素朴な疑問がなおもつづいている。ちょっと調べてみた。
  
 江戸城が無血開城した年、会津が陥落すると、明治天皇が京都から東京に行幸した。2度目の東幸(明治2年3月)で、住いを京都御所から東京城に移した。
 それは遷都(せんと)でなく、東京奠都(とうきょうてんと)だという。つまり、岩倉具視や大久保利通たちが、首都を東京としてしまった。
 政治家たちは、どの時代も、「天皇を利用した」とは一言もいわない。なし崩しに既成事実を作ってきたのだ。

 明治2年には「版籍奉還」(はんせき ほうかん)によって、全藩(日本中)の土地が天皇に返された。それは国有か、あるいは天皇の私有か、と意見が分かれるところだ。

 岩倉具視らは、国家の行政が干渉できない「皇室財産」をきめた。国家予算の決議が及ばないものが皇室財産となった。それによって、世界の王室のなかでも、最大級の資産となった。

 明治天皇は、ボロボロになった辞書ひとつ、国の財産だからと大切にし、買い替えるにも、自分の意志ではいかなかったという。
 皇室財産とは、天皇が直接管理でるものではなかったのだ。

 現在も、そうではなかろうか。
 
 時代はいっきに飛んで現在をみると、東京の皇居は115万0437㎡で皇室財産となっている。同様に、京都御所は20万1000㎡である。

 戦後の日本国憲法では、皇室の財産は国に属する、となっている。つまり、皇室財産は大規模に国の財産に転換されたのである。

 多少は納得できた。国有財産とは国民の財産だから。

                        (了)
  

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