歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【歴史エッセイ】① 黒船来航は、明治政府の宣伝に使われた。碑文は伊藤博文である。 

 年末年始は、出版社、講座の主催者、諸々のひとたちが正月休みに入るので、作家への電話やメールがぴたり止まる。講座・講演もない。家族関係をのぞけば、わたしには年に一度ともいえる自由な時間が確保できる。
 むろん、頭のなかは2年後から始まる新聞連載(一年間・日刊)があるし、その資料の収集や読破なども、如何に為すか、と渦巻いている。
 それはそれだ。わたしには貴重な自由な時間だから、読書ざんまい、と行きたいところ。それも一つの方法だが、普段できないことがやりたい。そんな思いで考えた。
 
 わたしは毎月、エッセイ、およびフォト・エッセイ講座で、受講生の作品をみている。ときには、わたし自身もエッセイを書いてみたい気持ちにとらわれることがある。しかし、ふだんの生活は締め切りが多い日常であり、そんなこころの余裕がない。

 そこで考えたのが、テーマなど関係なく思うままに書く、「歴史エッセイ」である。どんな内容になるか。さして構想はない。作家だから、きっと読者を意識したエッセイになるだろう。

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  わたしは最近のFB(フェースブック)で、簡略に紹介したが、三浦半島の久里浜に歴史散策で出むいた。湾曲の海岸には、ベリー提督上陸記念碑がある。それは実に巨大で、ばかでかい、という印象であった。

 おそらく人間の背丈の2倍半ていどか。その碑文の揮毫(きごう)は伊藤博文である。だれもが知る、初代内閣総理大臣で、薩長を代表するひとりだ。

「黒船の来航で、徳川幕府の要人はオロオロして、ベリー提督に蹂躙(じゅうりん)されて、開国した」
 ペリー提督は日本の侵略者扱いだ。
 どの教科書においても、ペリー提督は鬼の面を被ったように、とてつもなく人相が悪い。そんな悪しき人物ならば、ひっそり歴史の片隅に隠しおくものだ。
 歴史的に知らしめる必要があるならば、三浦半島の片隅に、小さな史跡の碑にするだろう。ところが、ペリー提督の上陸記念碑はまるで逆だ。靖国神社の大村益次郎(長州藩)の像のように、巨大な石碑だ。これはなにを意味するのだろうか。

 明治政府は、なぜペリー提督の上陸を賞賛をする必要があったのか。

 明治政府の政権の柱となったのが、薩長の下級藩士たちだ。かれらは幕末に外国人を聖地の日本を踏ませるな、と過激な攘夷運動を展開している。
 本来ならば、異人・ペリー提督の上陸など、とんでもない破廉恥なできごとだったはずだ。
 
 しかし、薩長は、弱腰外交の徳川幕府を倒幕する必要があった、とストーリーを作った。それにはペリー提督に脅える幕閣を演出させなければならない。鬼は大きいほど威力がある。
 薩長の下級藩士が、徳川政権を倒した。そして、西洋と肩を並べる軍国主義の強力な国家をつくった、と展開する。

 明治34(1901)年7月14日に、ペリー提督の記念碑が除幕された。


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 足軽以下の貧農の子に生まれた伊藤博文は、明治新政府の直前に武士になった。本人の努力と、時流に乗った運と、そしてお手盛りで伯爵になった。
 明治18年(1885年)12月に、太政大臣に代わる初代内閣総理大臣になる。低い出自を卑下されたくない心理から、トップの自分を人並み以上に、より大きく見せたい、という心理が働いていたと考えられる。
 
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 貧農の藤吉郎がやがて木下の苗字をもらい、明智光秀の反乱から、天下人になった。それにとどまらなかった。豊臣秀吉となり、太閤という官位にもあき足らず、さらに自分を大きく見せる行為に出た。それが朝鮮征伐だった。
  
 秀吉軍は朝鮮半島の侵略戦争で敗けた。

 
 明治38年(1905年)伊藤博文は韓国統監府を設置し、初代統監に就任した。日本は実質的な朝鮮の統治権を掌握した。そして、明治42年(1909年) 伊藤博文は朝鮮・ハルビン駅で、若者に射殺された。

 豊臣秀吉と伊藤博文は、育ちと精神はよく似ている。朝鮮を背景とした点も同じだ。歴史が変わっても、人間の考えることはさほど変わらないものだ。
 歴史は人間がつくる。それを教えてくれる。

【補足】
 太平洋戦争で日米開戦になると、アメリカ憎しで、「ペリー上陸記念碑」が破壊された。戦後に、元通りに再建されたものである。

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