歴史の旅・真実とロマンをもとめて

「赤穂事件」&「忠臣蔵」の盛衰、史実か娯楽か、美談か暴挙か

 2019年12月14日(土)は、三浦半島の歴史散策(日帰り)に出かけた。
 京急久里浜駅・朝11時の待ち合わせ前、私は10時5分〜にRCC(中国放送)ラジオ番組で『今週の深掘りしゃべる!』で、電話インタビューをうけた。
 約20分ばかり。それが終了したあと、朝日カルチャー千葉「幕末・維新講座」の受講生たちが、久里浜に集まってきた。ペリー提督の上陸地へとむかった。

 道々、忠臣蔵の話題におよんだ。
「30歳のひとでも、忠臣蔵を知らない。びっくりしましたよ」
 受講生のひとりが語った。
「えっ、そうなの。小・中学生は忠臣蔵をほとんど知らない、とは聞いていたけれど、30歳までが知らないとは、おどろきだな。価値観が急激に変わってきたものだ」
 私もびっくりした。

 いまは、戦争を知らない世代層が社会の中心にいる。『理由がいかなれども、暴力をふるってはならない』。これが現代の価値観である。鉄則かもしれない。

 古い価値観の先生が、手にあまる生徒を一発頬(ほほ)を殴れば、メディアに取り上げられて、休職か退職に追い込まれる。最悪はその一発で、数百万円の退職金すら失う。

 この価値観で、忠臣蔵を見れば……、どうなるか。


「義士祭」でも、超閑散とした。泉岳寺(東京・品川区)。ここまで、人気が落ちてしまったか。                     撮影:2019月12月10日


 世相からみて、「忠臣蔵」は四段階に分けられる。


① 江戸時代 ・ 演劇娯楽の庶民文化

  庶民が勧善懲悪(かんぜんちょうあく)をたのしむ芝居や浄瑠璃(じょうるり)が栄えた。元禄時代に起きた赤穂事件と、鎌倉時代の「太平記」を重ねあわせた「仮名手本(かなでほん)忠臣蔵」が一世を風靡(ふうび)した。

 吉良上野助を悪者にすればするほど、興行は大入り満員だった。戯作者や役者たちのよい収入になった。


② 明治時代~太平洋戦争 ・ 軍国政策への利用

 明治元年9月、戊辰戦争で会津が陥落した。翌10月には明治天皇が江戸城に入った。ここで、策士の岩倉具視、三条実美(さねとみ)がすぐさま天皇を利用した。それが忠臣蔵だった。

 明治元年11月5日に、天皇の勅使が、泉岳寺境内の大石内蔵助らの墓前に出むいた。主君のために美しく命をささげたと、大石の忠臣を讃える「宣」を. 読み上げた。


 明治天皇の「宣」から、赤穂浪士という表現から、赤穂義士になった。やがて、国家のために命を捧げる「忠君愛国」として、小学生の教科書にまで赤穂義士として載った。
 太平洋戦争まで、軍国少年を育てる格好の材料となったのだ。


③ 戦後の「忠臣蔵」ブーム ・ マスメディアの全盛期

 GHQが禁止した「忠臣蔵」が、やがて解禁となり、「忠臣蔵」ブームの再来となった。年末恒例の行事になった。このころは、日本の武士道を賞賛する、時代劇ファンの世代層が社会の中心だった。
「忠臣蔵」は美談と見なす。映画も、テレビも年末には興業・視聴率を稼げる、最大のドラマだった。


 線香の紫煙も、こころなしか少ない。大石内蔵助はもはやヒーローでなくなったのか
                     撮影:2019月12月10日

④ 現代の拒絶「忠臣蔵」 ・ 非暴力主義 
 
 赤穂浪士四十七人が真夜中に、吉良邸に押し入り、吉良上野介という隠居老人を寄ってたかって襲いかかり、首を刎(は)ねる。
 吉良邸の怨みもない家臣15人が殺され、23人が負傷した。死傷者は合計して38人である。この38人の被害者の家族たちの立場からみれば、吉良邸にやってきた狼藉者であり、テロリストだ。
 赤穂浪士四十七人は無法な行為であり、とても褒め称えられたものでない。

 こんな残虐性のストーリーで、忠臣蔵が捉えられているようだ。

               *
  
 
 忠臣蔵は、松の廊下から討ち入り、そして46人の切腹で終わる。「忠臣蔵」ファンのほとんどは、赤穂浅野家はお家断絶のままだと、思い込んでいる。「お家再興」が認められた事実まで、知らない。

 四十七人が吉良邸に討ち入りの直後、寺坂吉右衛門が大石内蔵助の指図で、広島藩に「永預け」の浅野大学長広(ながひろ)を訪れる。ここから劇的に浅野家の歴史がうごく。

 浅野大学とは、赤穂事件で切腹となった赤穂藩主・浅長矩(あさの ながのり)の実弟である。そして、養子になっていた。つまり、浅野長政の直系であり、豊臣がわを代表する血筋だった。

 広島藩浅野宗家が、家祖・長政の名誉回復のために、必死になるのだ。だから、討ち入りにも反対してきた。

 徳川5代将軍が綱吉から、6代家宣将軍に変わった。このときに、大きなドラマが起きたのである。
 広島藩の努力によって、浅野大学は晴れて6代家宣将軍にお目通りがかなった。「お家再興」が認められたのだ。やがて、幕末には、とてもすぐれた人物の輩出へとつながった。

 わたしはRCCラジオで、こうした史実に近い「赤穂事件」を語った。


 広島藩浅野宗家が、真の解決「お家復興」を望み、短絡的な大石内蔵助たちの討ち入りにつよく反対してきた。それは、暴力で解決するな、という現代に通じるものがある。
 
【関連情報】
 RCCラジオ『今週の深掘りしゃべる!』

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