歴史の旅・真実とロマンをもとめて

明と暗の歴史をいまに遺す広島湾を歩く (上) = 宇品

 私は初稿で「二十歳の炎」(改訂版・広島藩の志士)で、広島藩・神機隊が戊辰戦争に自費で出陣した。このとき宇品港から豊安丸に乗込んだ、と書いていた。
 江戸時代の回船時代から広島湾に宇品(うじな)があったと、信じ込んでいた。

 校閲してくれた友人の畠堀操八さん(広大付属・東京大学出身)が、「幕末には宇品港はなかったよ、西国街道の草津港だよ」と指摘された。
 歴史を書くうえで、思い込みは怖いな、と思った。

「かつしかPPクラブ」の郡山利行さんから、明治時代に薩摩出身の千田貞暁(せんだ さだあき)が広島県令(県知事)になり、宇品を拓いたと聞かされていた。

 広島市在住の藤井啓克さんは、原爆で破壊された町の都市計画を推し進めたひとである。このたび、広島市内、宇品、似島(にのしま)をたっぷり一日案内してもらった。
 厚いファイルを片手に、諸々説明してくださった。


 広島はそもそも太田川のデルタ地帯である。中国山地はたたら吹き銑鉄業が古代から盛んだった。その残土・鉱滓(こうさい)を太田川に流していた。千数百年にわたり、堆積した残土の上にできた地盤の悪い都市である。
 
「県知事の千田貞暁が、1884年に宇品港の築港および宇品干拓を着工した。しかし、難工事であった。工事期間中、何度も災害に遭遇し、工事費は跳ね上がった。資金集めにずいぶん苦労し、元藩主の浅野長勲に出資を懇願した。さらに、2度にわたの国庫補助金を受けたけれど、なお完成をみず、築港工事が粗漏(怠慢 ・ 手おち ・手抜り )だとして懲戒処分、さらには左遷されたのです」と藤井さんは語る。

 1889年(明治22年)11月に竣工式が行われた。日清戦争・日露戦争で、宇品港が軍用港として役割が大きかったので、多大な費用をかけた千田は批判されていたが、再評価されて現在に至る。

 日清戦争への緊張感が高まるなかで、山陽本線の広島駅から宇品まで引込み線が敷設された。それが「宇品線」であり、なんとわずか17日間で完成したのである。戦時の動員力には、空恐ろしささえも感じさせられる。

 宇品駅ホームは大量の兵員・物資の荷卸しを円滑にするために、560メートルもあった。東京駅の長い新幹線ホームは440メートルだから、いかに巨大なホームだったかわかる。

 日清戦争のとき、広島が大本営になり、明治天皇も長期に在留し、臨時国会も開かれた。(いっとき首都機能を持った)。兵員、物資の輸送として、宇品港から朝鮮半島にわたった。

 この後、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争のときも、大勢の兵士がこの宇品港から輸送船で中国大陸に出征している。

 

 広島国際フェリーポートがある。船舶の役目を終えて、劇場船「STU48号」として使用されている。


 
 元宇品地区は、宇品灯台の周辺から内港地区にかけて、瀬戸内海国立公園に指定されている。広島では数少ない原生林の1つ、クスノキの巨樹の樹林がある、と藤井さんは語る。

 マツダ宇品工場から船積みする輸送船が、沖合に停泊する。奇異な形状の船体だけに、目を奪われる。(写真の右手奥)
 

 この宇品港から、広島湾に浮かぶ三角錐の似島(にのしま)にむかう。霊感の強い人は、「背筋がぞっとする島だ」という。

                         【つづく】    

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