A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【近代史革命】 大政奉還は市民革命の前ぶれだった。だが、薩長が軍事革命を起こした

 現代とは過去からの歴史の延長線上にある。将来は若者たちのものである。

 現代の政治家は、1100兆円もの赤字国債を累積させながらも、その債務の解決ができず、先送りし、将来の若者たちにそれを払わせる算段だ。
 そんな為政者たちが、50年、100年後を背負う若者たちの行動を規範とする憲法までも変えようとしている。これにはいろいろな意見や見解はあるだろう。
 正しいか、間違っているか。為政者のだれもが1世紀後まで生きていないので、実証、確証は取れない。~声が大きく、数が多い、もっともらしい。これが正義だ、正道だと勘違させてしまう。
 わたしたちの歴史はそれを物語っている。


 民主主義の語源は、「優れた人」を意味する。

 この民主主義を勝ち取るために、イギリスも、フランスも、アメリカも、民衆が血を流してまでも、勝ち取った。それが市民革命である。

 産業革命、さらに資本主義に進むなかで、優れた民衆が、「わたしたちに政治をやらせよ」、と立ち上がった。貴族も民衆も、ともに血を流した。そして、議会制民主主義へと到達した。つまり、民衆が司法、立法、行政の三権分立の政治体制をつくったのだ。

 
 日本には、市民革命の歴史がない。日本の民衆がみずから血を流す民主革命を経験せず、武士階級が明治維新を経て議院内閣制度をつくった。民衆には「お上の言いなり」という封建制・武家支配のままのDNAが流れている。 

 市民らが政治・施政にたいして多少の反対運動をしても、最後は仕方ない、あきらめで、引っ込むか、忘れてしまうふりをする。ほとんどが、為政者の都合で、将来の絵をかいた展開におちついていく。


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  慶応3年10月、徳川家は無血で政権を天皇家に返還した。つまり、大政奉還である。この段階で、民主国家ができる可能性があった。
 イギリスの政治には『国王は君臨すれども統治せず」というかたちがある。単一国家の日本において「天皇は君臨すれども、統治せず」という政治形態がつくれたのである。

 それを描いた人物がいる。広島藩・浅野家の辻将曹(つじ しょうそう)である。執政(家老の職務)として、第二次長州征討(長州戦争)では徹底して非戦論を唱え、謹慎処分を受けた。それでも屈せず、非戦を貫いた。そして、出兵拒否で、藩論を統一した。
 その後においても、
「民衆を塗炭(とたん)の苦しみにおく、こんな徳川家には、もう政権を任せられない」
 と大政奉還をおしすすめた中心人物だ。

 慶応3年、いよいよ大政奉還が実現する寸前で、ある公卿が、辻将曹に対して、『明治天皇は幼い(14歳)。天子を助けて政務に当たれる公家がいるとはおもえない。大政奉還によって、かえって政治が乱れ、人民はその方向性を失う、この点をいかに思うか』、と問いただした。


『賢明な人民、庶民でも才能あれば、これを抜擢し、登用して官吏(かんり)にさせます。そして、公議をつくし、勅裁をあおぎ、万機をただす。天皇を頂点に据えても、この国は運営していけます』
 天皇を頂点とした立憲君主制を以って、万民の力で、国家運営を図れる。つまり、身分を問わず、政治の場に登用し、国家を運営する。そのための大政奉還だった。それが辻将曹の理念でもあった。

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 しかし、西郷隆盛、大久保利通は、上司だった小松帯刀を霧島(鹿児島)の温泉地に追いやって、京都で、武力革命を起こした。それが鳥羽・伏見の戦いで、長州も、鳥取藩も、諸藩も乗ってきた。さらに戊辰戦争へと拡大した。それは武士=軍人が支配と権力を奪う戦争であり、市民革命ではなかった。

 維新後の薩長の軍人政治家にとって、広島藩・浅野家の平和主義はかぎりなく不都合だった。歴史から広島藩、浅野家を徹底して消していった。

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 明治時代から、軍事政治家による支配がつづく。大日本帝国憲法で、天皇が現人神となり、日本男子は兵役の義務を課せられ、日清、日露、第一次、満州、日中、太平洋戦争へと戦争国家として突き進む。
 民衆が政治を批判すれば、国賊だった。民主主義の根幹は思想・信条の自由であり、少数派の尊重であるが、そういう芽も育たなかった。

 
 維新が「近代国家への道」というが、これは事実誤認だ。「近代産業の導入」であって、国家は軍事力なり。富国強兵の政策は、どこまでも鳥羽伏見から得た軍人支配の延長にあった。民のための政治ではない。いわゆる、政治の後進国だった。

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 戦後の日本は、米軍の統治下におかれた。非戦を高々にうたう理想の憲法ができた。これは民衆が勝ち取ったものではない。だから、朝鮮戦争が起きると、日米安保条約という、超法規、つまり憲法よりも強い拘束力の条約が私たちの頭上にかぶさっても、民はそれに従うのみだ。

 現在の議員制度は、投票で選ぶ代議士が政治を決めていく。一見して、民主国家に思えるが、わたしたち市民の力で勝ち取った政治体制ではない。どこまでも、お上のやる政治なのだ。
 投票すれば、それが民主主義の世のなかだと思い込まないことだ。

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 歴史教科では教えないけれど、幕末に大統領制、中央集権制の導入を唱えたのが、徳川家だった。
 広島藩の辻将曹が、大政奉還について、慶喜将軍に面とむかって、
「賢明な人民、庶民でも才能あれば、これを抜擢し、登用して官吏にさせます。武家の職にあるものでも、実務に成熟しているものも官途につけるべきです。万民の力で国家運営を図るのが望ましい政治です」
 辻将曹が説いたのが、天皇を頂点とした立憲君主制だったから、徳川慶喜は大政奉還を受けて立ったのだ。

 小御所会議で、明治新政府が樹立したあと、慶喜は新国家のために現金・8万両を出している。欧米に近い民主国家をめざす慶喜も辻将曹も、まさか1か月後に、鳥羽・伏見で下級武士による軍事クーデターが起きる、とは予測もしていなかったのだ。


 辻将曹は、鳥羽伏見で広島藩の正規軍に一発の銃弾も撃たせなかった。慶喜は国内の混乱を避けるために、京都から、大坂、そして江戸にもどった。そして、江戸城の明け渡しを指示し、みずから上野・寛永寺に謹慎したのだ。

 
 毒舌の勝海舟が、晩年の口述・氷川清話で、「幕末にはろくな家老がいなかったが、藩を導けるまともな家老は辻将曹と、岡本半助(彦根藩)だけだ」と述べている。
 
 勝は晩年まで頭のなかに、辻将曹が掲げた民主主義の理念がつよく残っていたのだろう。

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 政治は50年、100年単位でみる必要もある。軍事革命の鳥羽伏見の戦いはわずか150年前だ。当時も、いまも、庶民がみずから内閣総理大臣は変えられない仕組みである。市民がみずから優秀なトップを選べない。
 見方を変えれば、民主主義からほど遠く思える。

 民主主義とは、「優れた人」を意味する。数百人の代議士のみが選ぶ、内閣制度も疑問を呈してはどうだろう。
 憲法論議が起きた今、いっそうのこと民衆が直接に国内のトップを選べる、大統領制にする方法もある。血を流さず、無血革命として、大統領制度へと憲法を切り替える好機、市民革命のチャンスかもしれない。
 どうせ投票するならば、わたしたちはずばり国家の頂点を選んでみたいものだ。たとえ、その人物が傲慢で、民のためにならなくても、あきらめがつくし、トップの選びなおしも可能だ。お上・至上主義の日本人の政治感覚と価値観が変わっていくだろう。

 長い1世紀、2世紀の歴史からみれば、これも市民革命の流れから必然かもしれない。そういう議論が起きてもふしぎではない。

 歴史を変えてきたのは、常に燃える若者たちだった。将来は若者たちのものである。かれらは今のいまの政治体制だけでなく、西洋、東洋、日本の歴史を2世紀ほどさかのぼり、歴史から学び、そこからジャッジしてほしい。
 

                       【了】
   
 

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