歴史の旅・真実とロマンをもとめて

鹿児島・廃仏毀釈はまやかしで贋金づくり=南日本新聞、神機隊物語

 平成30年(2018)4月に発刊された拙著「芸州広島藩 神機隊物語」のなかで、薩摩藩の贋金(にせがね)問題を掘り下げている。

「薩摩はここまでやったのか。汚い手口だ。薩摩の倒幕はさして威張れたものではない」
 わたしにはそんな怒りがあった。

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 【鹿児島市にはお墓があっても、お寺がまったくない】。仏教国のわが国としては、あまりにも異常である。明治時代の廃仏毀釈でとりつぶされたというのが、これまでの通説だった。しかし、一般庶民が、きのうまで信仰していた対象物を徹底して建物ごと破壊できるものだろうか。それも、すべての寺だ。人間として、それができるのだろうか。
 これがわたしの最初の疑問だった。


 第2の疑問は、薩摩藩は慢性的に大赤字である。桜島、霧島の火山灰が降り積もった痩せた田地である。
 過去には豪商から「500万両、無利息250年分割払い』している。武士は人口の4割(不労)。江戸時代末期に、なぜ急激に最新鋭の武器、軍艦をもち得たのだろうか。

  これまで沖縄・奄美諸島のサトウキビの収穫、琉球の密貿易だと説明されてきた。しかし、慶長14年(1609年)侵攻から250年余経っている。
 幕末に急激に、琉球密貿易が増えたわけではない。


 第3の疑問は、文久2(1862)年、島津久光が1000人の兵をつれて江戸にあがっている。軍事圧力を幕府にかけて、一ツ橋慶喜を将軍後見人、松平春嶽を総裁職に推挙した。これを「文久の改革」と称している。

 しかし、不可解なのは、同藩は前年(文久1年)に、参勤交代の費用が捻出できず、芝の薩摩屋敷をみずから放火し、それを理由に参勤交代の免除をねがいでている。
 それなのに翌年は、1000人の兵をもって江戸にくるのは不自然すぎる。裏には何かある。

 久光が、慶喜・春嶽の推挙で、2カ月半も江戸に滞在することも長すぎる。
 これらは現代感覚におきかえてみると、わかりやすい。『1日3食1万円』。久光が引き連れた1000人が江戸に滞在すれば、1日一千万円である。2か月半で7億円強だ。
「久光とて人間である。貧乏の藩が九州の南端から、他人のために、こんな出費をやるはずがない。どこかでつよい利害があるはずだ」
 
 文久の改革は表むき、裏にはきっと何があるはずだ。私がつねに大切にしている、人間の行動からみた『歴史の勘』である。

 当時の老中や勘定奉行の幕閣から調べてみた。勘定奉行の小栗上野介が、久光が「琉球通報」の貨幣鋳造を申し出ている。
「鋳造権は徳川家が160年間安泰できた、最大の武器だ」と小栗は徹底して反対していた。久光は1000人の兵で水野 忠精(みずの ただきよ)を脅し、小栗上野介を町奉行に配転させたうえで、水野老中から、3年間限定の「琉球通宝」鋳造許可を得ている。
 
 久光の最大目標である。小松帯刀、大久保利通らが贋金づくりに絡んでおり、この3年間がなんと明治初年まで拡大していったのだ。そして、倒幕資金になった。

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 歴史の真実はとかく隠される。真相追及は、刑事とか検事の手法によく似ている。まず疑問としっかり向かい合う。

①『刑事の勘、つまり歴史の勘」という嗅覚だ。怪しい。この裏には何かあると疑う。人間はこんな行動をするだろうか、と自問してみる。

② 刑事の現場100回とおなで、『足で書く』に撤する。取材は惜しまず、全国各地にフットワークを利かせる。

③裁判所の証拠採用とおなじで、「証拠を積み重ねていく」手法をとる。

 この三つを中心に根気よく追求すると、真相が浮上してくる。事実が向こうから近づいてくるのだ。


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 歴史年表をもとにヒーロー小説を書けば、それは通俗歴史小説になる。

 歴史とは政治・経済・文化・思想の4つの要素で動くものだ。私は、それぞれの角度で史料・資料をあつめてきて複眼的な視点から、疑問に向かいあう。そして、小説化する。

 「芸藩志」、「広島県史」など精査していると、島津家は鋳造総裁の市来四郎を御手洗、広島藩に出張させて、広島藩から正金10万両の貸し付けと見返りに、中国産地の鉄と銅を購入したという歴史的事実がでてきた。

 大崎下島・御手洗は薩芸交易で栄えた港である。足で歩けば、近年、住吉神社の改築工事がなされた。「薩摩天保通宝」がたくさん出てきたという。(重伝建を考える会・理事)。実証だ。


 島津家は鹿児島のすべての寺をつぶし、広島藩から買いつけた銅鉄で、290万両という膨大な贋金を使った。倒幕の基軸が、薩摩の贋金づくりにあったのだ。

 メッキ二分金が三井組から近畿地方に流れて、ハイパー・インフレ(超インフレーション)を引き起こした。民は物価高騰で困窮し、打ち壊し運動になった。

 これは徳川家の経済政策に大打撃となった。「ええじゃないか運動」を引き起こした。慶喜が、とうとう経済政策に行き詰まり、政権を朝廷に返上する大政奉還となった。
 経済が政治を動かす。典型的な事例だ。

 薩摩藩はニセ2分金で、長崎のグラバーなど貿易商から、大量の武器と軍艦を購入している。同時に、国内の諸藩にも売り渡していた。
 そのうえ、薩摩の倒幕派が贋金で密輸入した武器を鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争で使っていた。


 問題は島津家の贋金が世界中にまわっていたことだ。明治新政府の重大な外交問題になった。どのように回収するか。

 徳川幕府にも、明治新政府にも、薩摩の贋金は政治の根幹を揺るがした歴史的重大事件となった。

 負の側面にしろ、「日本史の教科書」にも記載すべき重要な出来事である。それでなければ、なぜ徳川政権が、安政通商条約で貿易量を急激に伸ばしながら、経済政策に行き詰まったのか。
 民の生活を根幹から弱体化(塗炭の苦しみ)させたのか、という真実が国民に示されないことになる。
  

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 わたしが『神機隊物語』を発刊しても、鹿児島がわは、「贋金づくりは、おらが県の恥部だから」ときっと頬被りだろう。まして、NHK大河ドラマ「西郷ドン」の放映ちゅうだから、島津家の贋金による倒幕は発信されないだろう。そう思い込んでいた
 
 鹿児島の知人が、「南日本新聞」(6月21日)を送ってくださった。

 同紙は、『維新鳴動─かごしま再論─』という一面をつかっていた。【廃仏毀釈】と称し、『薩摩から寺が消えた』と野村貞子さんの記名記事である。

 書き出しからは、明治時代の平田国学、祭政一致、神仏分離令、廃仏毀釈という月並みな展開が延々と続く。それだけでは、江戸時代の島津家による「1066寺の取り壊し」、すべての寺が消えた理由は説明できない。

 囲い込み記事『俯瞰図 大砲や銅銭になった梵鐘』において、德川斉昭(なりあきら)が攘夷を主張し、水戸藩内の梵鐘や仏像、仏具といった銅製品を求めて、反射炉でつぶして大砲を作った。
 薩摩藩はこれに見習ったという。


 水戸の寺つぶしと、薩摩とは本質がまったくちがう

 
 水戸藩はペリー来航以前から、鹿島灘の沿岸に、英仏の捕鯨船の船員が上陸し、住民の物々交換していた。それに苦慮していた。徳川斉昭が、御三家の立場から、これら外国船を追い払う必要に迫られた。寺をつぶし、大砲を作って、外国船を威嚇したのである。
 寺つぶしで、貨幣の鋳造を行っていない。
 
 
 記事は詭弁的、言い訳の記事におもえるほど、公明天皇の意志表示、岡山藩なども持ちだす。贋金を目的とした島津家と、廃仏毀釈の寺つぶしとは本質がちがう。

 「1066寺の取り壊した贋金づくり」をオブラートに包む。鹿児島の新聞社として、やむを得ないところか。

 記事のラストになって、本来のテーマであるべき内容が出てくる。

『島津斉彬の急死のあと、文久3年(1863)年から、薩摩領内において、寺から鐘や花瓶、香炉などの仏具をあつめられた。錢つぶされて銅銭「琉球通宝」として活用されたことが知られている』と記す。

 これが1066の寺が破壊された主要な歴史的事実だから、新聞記事のメインであって、リード文で大々的に書き出すべきである。末尾で、ごまかしの感がある。


 記者は、従来型の薩長倒幕論や、坂本龍馬英雄史観は、いまや歴史のまやかしだと批判される時代に来たと認識しているのだろう。

 「琉球通宝」だけにとどまっているが、贋金問題へと第一歩を踏み出したもの、と評価はできる。

 このさき薩摩が徳川家のご禁制の「天保通宝」を大量に作った。さらに世界中に薩摩の「メッキ二分金」がばらまかれたと、南日本新聞から発信されるまで、もうすこし時間がかかるのだろう。

 いまの段階では、鹿児島の女性新聞記者には勇気がないだろう。 否、編集トップの顔色や地元民の反応を考えれば、彼女なりに精一杯頑張ったのだろう。

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『広島藩の志士』において、長州は徳川倒幕に表立って役立っていないと論陣を張った。『神機隊物語」では、薩摩の贋金が徳川家の経済政策に大打撃を与えたと暴露した。

 広島藩から見ればみるほど、国が編さんした官制幕末史が崩壊してくる音がきこえる。

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