A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【近代史革命】軍人政治の史観で、徳川政権を批判する時代は終わった(下)

 戦後から70余年が経ったいま、私たちは江戸時代、明治時代、大正、昭和、平成という時代を、公平、客観的にみられる立場になった。
 明治時代から太平洋戦争の終結までの77年間に活躍した方々も、大半が鬼籍に入り、現存者は数すくない。明治~戦前まで、もはや史料や資料、写真や文献で検証する、近代史の領域に入ってきた。

 江戸時代は武家社会である。封建社会であり、古い体質であったことは事実だ。しかし、庶民は貧しいなりにも、戦争のない国で助け合って生きていた。


 明治時代から太平洋戦争の終戦まで、総理大臣、大臣、統帥部、参謀本部など、日本の政治を動かすひとは軍人である。それゆえに、歴史的事実として、侵略国家となった。

 歴史とは、現代をふまえたうえで、過去への問いかけである。つまり、現在の基準から、歴史の裁断が必要である。


 現代の歴史教育から、通俗「幕末小説」まで、とかく『明治時代は素晴らしい』と薩長閥政治家の作った国体・歴史教育の延長線上におかれている。

 つまり、いまだに明治政府が意図的・恣意的に作った軍国主義をすりこむ歴史教科書の影響をつよく受けつづけている。
 そこから脱皮するのが、「近代史革命」である。

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『軍国主義77年間』は、富国強兵政策で、国家の財政収入が国民の生活に直結しないところ、巨額の軍事費にまわった。
 台湾出兵、日清戦争、日露戦争からはじまり、太平洋戦争まで、朝鮮、中国、東南アジアなど領土の拡大が政治の最大目標であった。
 戦争はぼう大なお金がかかる。国家収入の数倍も戦費につかい、国民が飢える、最悪の経済環境に陥ったのである。

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 明治後半には、義務教育制度が男女とも確立し、就学率は90%を超えた。教科書は検定制度となり、修身、国語、地理、歴史が最優先して行われた。

 教育勅語で代表されるように、軍国少年の育成だった。国の規格の押し付けや規制のなかで子どもらは育った。
『お国のために、天皇のために死す』。多くが若き兵隊となり、命を散らした。

 昭和16(1941)年の真珠湾の開戦当初は、『祖国を守る』ことは、外国から奪った侵略地の利権を守ることだった。
「祖国ということばは、まやかしであり、すり替えがあったのだ」

 少なくとも、本土防衛が叫ばれた戦争の後半まで、軍人政治家が描いた祖国とは侵略地の死守だったのだ。

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「軍国主義77年間ほど、ひどい国家づくりはなかった」
 日本史1千年の歴史から見ても、この海外侵略思想は最悪だった。豊臣秀吉の朝鮮征伐も、ひどかった。なにが征伐か、私たちには理解不能だ。この侵略イズムは、徳川家康は朝鮮通信使を招くなど、戦争のながれを絶った。数年で侵略は終わった。


 終戦後のドイツは、なぜ第二次世界大戦に及んだのか、ナチスドイツがなぜ国民に熱狂して迎えられたのか。政治家から民までが深く検証した。
 日本人は過ぎたことに、あまり振りむかない体質がある。「軍国主義77年間」の総括がなされていないまま今日に及んでいる。
 だから、「明治時代は近代化に進んだ素晴らしい」という価値基準に照らして、いまだ幕末・維新が語られているのだ。


 NHK大河ドラマ「西郷ドン」は、通俗歴史小説の娯楽で楽しむもの、とすれば、そのまま英雄史観で楽しめばよい。
 ただ、主人公・西郷隆盛にはなにかというと、「新しい国を作る」と叫ばしている。

「おいおい、明治に入ると、薩長政権が暴走し10年に一度外国に侵略戦争国家になるのだ。これが新しい国家か」
 と思わざるを得ない。
 林真理子著「西郷隆盛」を読んでいないので、なんとも言えないが、この女性作家は、明治政府のつくった歴史教科書「明治時代は素晴らしい」という呪縛から、解放されていないのだろう。

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 いまだもって尊王攘夷運動が美化されている。日本を開国にすすめた井伊大老の暗殺を必要悪としている。最悪の歴史観だ。

 勘定奉行だった小栗上野介ら徳川家のエリートたちが、遣米使節団(77人)として米国大統領、国務大臣にも面談している。そしてイギリス・フランスをみて世界一周してきた。

 副使だった村垣範正「遣米使日記」には、大統領が市民の選挙で選ばれる、護衛もなく、一人でホテルに訪ねてくる、女性を大切にしているなど、米国の政治・社会システムが克明に記されている。
 小栗や村垣たちは、こうした国家を目指して帰国したのだ。

 ところが最初に聞いたのが、開国派の井伊大老の暗殺だった。さらには、開国した横浜港で外国人人殺しが横行していた。

 外国奉行となった小栗は、なぜ外国人の命を狙う必要があるのだ、日本の近代化・工業化のために招聘(しょうへい)した技師まで、なぜ殺すのだ、と怒った。

「攘夷、攘夷と孝明天皇が開国を嫌うならば、承久の乱のように、天皇を隠岐の島に流してしまえ、日本は選挙で選ぶ大統領制にしたほうがいい」
 とまで公言している。
 
 私たちは、いまだ幕末の尊王攘夷(尊攘)理論が正しいと思い込んでいる。どの時代においても、他国の非武装のひとを殺して、正義などあるはずがない。

 小御所会議で明治新政府ができた。このあと西郷隆盛が仕掛けた鳥羽・伏見の戦いがあった。歴史の流れを変えた。

 近代化の祖である小栗上野介が、真っ先に殺されてしまった。

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 薩長の下級武士らは、武力で威厳をみせる、名誉と権力をとる。そして軍国主義の政権を作っていったのだ。
 それらを確固たるものにすべき、明治後半には義務教育を通して、軍国主義に洗脳された軍国少年たちをつくっていった。
「お国ために、武器をもって戦うのが正義だ」と教育されたのだ。たしかに、突撃に突撃、死の怖さを越える日本軍は強かった。玉砕もお国のためだと死す。
 その拒絶や反発は出なかった。それだけ軍事教育が、子どもの人格権を無視して徹底されていたのだ。

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 日本が中国大陸に満州国をつくったから、国際連盟の加盟国、つまり世界じゅうからバッシングをうけた。経済封鎖をうけた。外国債券などは発行できない。
 このとき取る道は、戦争か、外交努力による平和解決か。2つに一つ。

 日本の国策や戦争のグランド・デザイン(全体構想)を推し進める政治家トップは、すべて軍人である。軍人は悲しいかな、奪った土地は死守しようとする。
 民間人がいなかった。ここに日本の不幸があった。

 戦争回避をするならば、満州国から段階的な撤兵を条件にした、外交交渉術があった。
「勇気ある撤兵が戦争回避になる」
 しかし、軍人政治家は、撤退を恥だとしていた。

 外交解決の道は閉ざされた。そのうえ、日独伊三国同盟を結んだ。あげくの果てには、神風を信じた海軍元帥(天皇陛下の次に偉かった)が1、2年の攻撃のあと、外交で有利な解決できると思い込み、連合艦隊でハワイ島を攻撃したのだ。

 これは最悪の選択で、物資の豊富な米国と大規模戦争になった。長期化の様相をみせるが、どの国からも、どの国際機関からも、和平・休戦の仲介など現われなかった。アテが外れたのだ。ここらは開戦に突っ走った海軍元帥の読みちがえである。


 ちなみに大日本帝国憲法には内閣の規定はない。内閣総理大臣はお飾りで、大臣の任命権はない。開戦の判断は作戦を練る「統帥部」であり、総理は口出しはできなかった。
 総理の権限は現行憲法とまったくちがう。歴史認識として知っておかないと、真の戦争責任者は歴史家にごまかされてしまう。


 赤紙1枚で兵隊はあつめられる。いのちの使い捨てだ。子どもたちには鬼畜(きちく)英米だと叫ばせる。人間を鬼畜よぶようでは、もはや異常な軍人政治家たちだった。

 日本は神の国じゃない。思い上がりだという批判をすれば、官憲が思想弾圧する。
 
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 神風は吹かなかった。東京大空襲、本土各地が空爆をうける。理性ある政治家がわが国には不在だった。沖縄は奪われているのに、まだ戦争を終結しようとしない。

 明治時代からの軍国主義の延長77年間の代償は大きかった。昭和20年は東京大空襲、全土の空爆、広島・長崎の原爆。日本は神の国じゃなかった。思い上がりだった。

 国土の廃墟から昭和20年8月15日、日本は米国に無条件降伏を受け入れた。同年9月にはミズリー号で降伏文書に署名する。

 翌・昭和26年には昭和天皇が人間宣言する。極東軍事裁判が始まり、明治時代から続いた軍人政治家、軍国主義者が舞台から退いていった。日本軍はすべて解体となった。そして、日本国憲法が成立する。

 27年、憲法に基づいた参議院、衆議院の総選挙がおこなわれた。

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「戦争に負けてよかった。軍隊・軍人が解散した」
 戦後の日本人は、この解放感からスタートした。
 サンフランシスコ講和条約で独立を成して、昭和30年代の所得倍増計画から輸出に勢いがついた。軽産業、重工業製品、ハイテック産業の輸出へと躍進し、つねに貿易収支の大幅黒字から、円為替が強くなり、国民が豊かになった。


 私たち戦後組は、それをもって父、祖父たちが各国に迷惑をかけた賠償金を支払いながらも、なおも高度に成長した国家へと進んできた。
 結果として、戦争せず、経済発展をすれば、国民が豊かになれると証明できた。自信を回復し、確固たる地位を確立したのだ。


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 太平洋戦争の肯定型のひともいる。日本軍の東南アジアの侵略戦争によって、イギリス、フランスを植民地から追いだした、と功績を主張する。はたして、各国は感謝したのだろうか。

 日本がインドシナ半島に侵略しなくても、世界の流れをみれば植民地主義は19世紀後半から後退しており、太平洋戦争が終結したあと、アジア諸国はごく自然に次つぎ独立国家になっていただろう。
 アフリカ諸国のように10年~20年のタイムラグはあったにせよ、植民地支配からの解放がなされていたはずた。
 遅いか、早いかの違いだ。

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 日本がやがて高くて強い経済力を買われてサミット国に選ばれた。

 アジア諸国は羨望のまなざしで、一斉に日本の戦後復興に見習い、経済成長を主眼にし、欧米と競う時代になった。平和的復興が良い手本になったのだ。

 いま、この時代から、『軍国主義77年間』の諸悪はだれかと問い詰めれば、維新後に政権の中枢に座った薩・長・土・肥の要人である。
 明治半ばからは、海軍=薩摩、陸軍=長州と独壇場になり、政権を牛耳(ぎゅうじ)った。これが太平洋戦争の終結までつづいた構図だ。

 薩長は戦争国家を選択した、途中でストップすらさせなかった。軍人政治家として自らの権力の維持に努めたのだ。
 あげくの果てに日本を焼土にした。終戦後、みずからの懺悔(ざんげ)もなく、外国人による極東の裁判をうけて政治の舞台から立ち去って行った。

 私たちがいま、この歴史認識の下で、「明治時代は素晴らしい」という薩長美化の呪縛(じゅばく)から解放される、批判するときがきたのだ。つまり、真逆の歴史評価が主流になり、後世に正しい歴史評価を伝えていく役割をもっているのだ。
 それが近代史革命である。

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