【近代史革命】 軍人政治の史観で、徳川政権を批判する時代は終わった(上)
「横浜開国の祖」は井伊大老である。横浜港を見下ろす丘に立像が立っている。
神戸港のほうは一ツ橋慶喜が、攘夷に凝り固まった孝明天皇から勅許をとって開国させたものだ。
政治家は100年の計で、政治の施策を選択をする必要がある。「戦争をしない。国民を飢えさせない。国を滅ぼさせない」。この3つは必要最小限でかつ最大限の努力である。
太平洋戦争の終結した1945年の戦後から、70余年が経つ。敗戦後は亡国寸前のゼロスタートからだった。やがて池田勇人の所得倍増計画からはじまった高度経済成長で、目覚ましく発展した。
経済発展が国民の間の最大のコンセプトとなった。国民は多くの分野で競って高度な成長をこなした。
時どきの金融・財政面の苦境も、戦争で逃げるのでなく、全国民がひたすら努力し、あらゆる産業を発展させた。貿易収支の黒字で、輸入を拡大し、国内のインフラを整備し、工業化をすすめた。問題になった環境汚染対策も成し、世界市場に羽ばたいた。
「日本は資源のない国だ。戦争をしなくても、経済発展すれば、国民は豊かになれる」
GNPで世界2、3位の地位に及んだ。
そのなかでも、貿易収支の黒字が最も寄与した。その最前線が横浜港、神戸港という国際貿易港だった。
徳川家の政治家たちは、「攘夷思想」という古い概念(日本書紀、古事記に基づく)の暗殺団が渦巻く危険のなかで、身を挺(て)して、横浜港と神戸港を開港させた。
この立地条件は実に素晴らしい。
大正関東大震災の震源地は横浜沖だった。横浜港は大きく破壊された。しかし、すぐさま立ち直った。神戸港も阪神大震災で壊滅的な被害をうけた。これも復旧し、いまや健全な交易港として機能している。
戦後の私たちは、徳川政権が作ったこの横浜、神戸の国際貿易港の恩恵を十二分に受けている。この2港がなければ、日本がGNPで世界2、3位、アジア唯一のサミット国に選ばれたという経済発展には到底及ばなかっただろう。
徳川政権の為政者は100年先、150年先の将来を見つめていたといえる。それらを妨害していたのが尊王攘夷派だ。
尊攘派は日米通商条約を悪く言って、井伊大老の暗殺を正当化した。外交交渉は多少なりとも妥協が必要だ。日本側に100%好都合とはいかない。自明の理だ。
戦後派の私たちまで、薩長閥が中心の軍人政治家たち77年が作った歴史観に乗り、井伊大老の桜田門外の暗殺を正当化してはならない。戦後の日本が、どれほど徳川家の開港で恩恵を受けたか、という視点で歴史を評価するべきである。
明治維新が素晴らしかった。そんな時代はもはや終わった。戦後の日本の方がより高度で平和的な国家をつくったという視点から、幕末・維新の史観を見直すべきときにきたのだ。
【つづく】
撮影:横浜港 2018年4月4日