歴史の旅・真実とロマンをもとめて

「薩長倒幕」は史実でない、歴史のわい曲は国民のためにならない(上)=東京・講演より

 歴史は現在、および将来の指針の役割を果たす。1000年の太古から、社会環境の違いがあっても、人間の考え方、心理はほとんど変わらない。突然変異ような政治体制にならない。

 歴史から学ぶためには、歴史は真実でなければならない。ただ、権力者、為政者、歴史作家、学者などよって、とかく捻じ曲げられる。それが教育に乗せられると、真実だと国民は疑わないで、真に受けてしまう。
 討幕直後から、薩長政権ができたと信じ込んでいる人が、いかに多いかだ。

 2018年6月1日のシニア大樂「公開講座」の壇上で、「幕末の広島藩がどんな活躍をしたか、ご存知ですか」と私がそう質問しても、誰ひとり知らない顔だった。

「そうでしょうね。数年前は広島市、広島県民などは100人中100人が知りませんでしたからね。無理からぬことです。明治政府、とくに長州政権になってから、広島藩の浅野家史が封印されて、まったく知り得る機会がなかったのです。みなさんが知らない。当然ですよ」

 数年前、私がこの講演の場で「坂本龍馬」を演題にしたときは、会場から溢れる100人以上だった。今回の講演で、私はあえて演題「倒幕の主役は広島藩だった」(広島藩の志士・帯)を謡ってみた。予想通り80人ていどだった。
 
「ひとり浪人スーパーマンが幕末史を動かすなんて、あり得ない。坂本龍馬が教科書から消える。あと5年、10年先には『薩長倒幕』ということばも教科書から消えますよ」
 会場は、まさかという顔をしていた。

 幕末史には人間業とは思えないスーパーマンが出現する。日本一の数万人の大企業を社長一人が興したような表現になる。非現実な展開を史実と信じてしまう。


「慶応3年10月15日、同年12月9日で、大政奉還、小御所会議で、明治新政府ができました。このとき、京都に潜伏していた毛利家家中は、品川弥二郎たった一人ですよ。ひとりが倒幕できますか。朝敵の長州藩は倒幕に役立つ藩ではなかった」

 龍馬にしろ、品川弥二郎にしろ、国家の転覆など、1人で出来るはずがない。学者も作家も、そこは目をつぶり、長州が倒幕に大きな力を持ったとする。「薩長ごっこ」を楽しんでいるのですよ。
 長州と薩摩とは、8月18日の変、禁門の変で、心底から憎しみ合っていた。仲がメチャメチャ悪い。それなのに薩長は仲良くなったと、ムリくりこじつけている。

「慶応3年11月末、広島藩が主導した薩長芸軍事同盟により、3藩が倒幕のために京都に挙兵したのです。広島藩と薩摩藩は、朝敵の長州藩兵をいかに上洛させるか、と知恵を絞ったのです」
 御手洗(広島県・大崎下島)と尾道とに、長州藩1000人強ずつを呼び込んだ。そして、その長州藩兵にはみな軍服、襟章も広島藩の格好にさせたのです。軍旗も広島藩の旗をもたせた。これは軍人として屈辱ですよね。
 軍団の船で畿内にむかっても、長州藩はいきなり京都に上がれず、西宮と淡路沖で待機しておれ、と命じられた。
「慶応3年12月半ばに、やっと京都に上洛できたのです。広島藩の軍服を着せられた長州藩が、翌年の明治元年に政治のトップに立てますか。無理でしょう。突然変異で、新政権は生まれないのです」

 徳川倒幕は人民革命ではなく、260藩の大名は誰ひとり殺されていない。倒幕からいきなり薩長政権ではない。ここに祭政一致という津和野藩の政権が存在する。

 明治新政府の発足は皇室、公卿、津和野藩、五大名家(尾張・徳川、福井松平家、広島・浅野家、土佐・山内家、薩摩島津家)の大名と家老クラスによるもの。これら五家はいずれも松平家か徳川家ですから、まだまだ德川政権が9割以上だったのです。

 かんたんにいえば、徳川家・松平家の譜代による老中支配政権が解体しただけです。倒幕というよりも、厳密にいえば、徳川どうしの争い、徳川支配体制の内部崩壊、もしくは分裂である。

 薩摩や長州の下級藩士は、おそれおおくもトップには程遠かった。かれらが実質的な薩長政権についたのは、廃藩置県の4年後からである。

             写真提供:シニア大樂

                     【つづく】  

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