歴史の旅・真実とロマンをもとめて

坂本龍馬関係者よ、「龍馬の真贋ならば」、「芸藩志・第81巻」を読みたまえ(中)

 芸州広島領の浅野家が、なぜ徳川家の倒幕運動の先がけとなったのか。その理由はとても、明快だ。浅野家は、豊臣秀吉に正室(北の政所・高台院こうだいいん)を嫁入れさせている。家の格として、豊臣方の筆頭格の存在なのだ。

 かつて徳川家康すら、浅野家には一目も、二目もおく存在だった。
 浅野家の上屋敷には、江戸城登場に最も近い桜田門の目の前(現・警視庁と霞が関)に、広大な敷地を与えるほどの気の使いようだ。
  
 
 秀吉には頭が上がらなかった家康だった。その家康が戦国時代の戦いを休戦させた。そのうえで、以降の260余年間にわたり、江戸城に政治の中心をおいた。それは国家統一でなく、戦国戦乱の一時停戦だったのだ。


 日本列島に260諸国があった。戦国大名は、江戸時代になっても、いずこも世襲で「お家」主義であった。
『日本国』『わが国』という概念が薄く、分断された独立国家だった。(国民の末端まで、日本国、という意識が及んだのは日清戦争から)

 德川家の15代にわたる将軍は、戦国時代の群雄割拠のまま、政治・社会体制システムの根本を変えなかった。結果論からみると、それが徳川政権の最大の弱点となった。

 諸国は参勤交代や普請命令など、徳川政権の命令に従う。だが、豊臣対徳川の対立精神が底流で脈々と生きており、分断した独立国家体制のままだった。ペリー提督の黒船来航のあと、西側雄藩(豊臣色)と東軍(徳川色)という対立構造が、急激に浮上してきたのだ。

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 徳川時代には「藩」の呼称はなかった。「藩」という呼称は明治2年に、廃藩置県に移行させる暫定処置である。明治4年にはもう鹿児島県、山口県、広島県、和歌山県になり、郡県制度に変わった。
 わずか2年間の『藩』だった。それにもかかわらず、150年後の私たちが、「藩の意識」で幕末史を理解しようとするから、倒幕の本質が見えにくいのだ。

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 禁門の変で、毛利家は御所に発砲し、乱入した、「天皇家の敵なり、征伐せよ」と孝明天皇が征夷大将軍の家茂(いえもち)将軍家に命じた。

 第一次長州戦争へと進軍してくる幕府軍と、朝敵・長州の間はどの大名家が仲介するか。毛利家の親戚筋の福岡藩や、宇和島藩すらも、徳川家の怒りを怖れて断った。

 広島藩・浅野家がみずから仲介を買ってでた。それは関ヶ原の戦いで、毛利家が豊臣方の総大将だった。浅野家の藩主のこころに、いまや豊臣方の元総大将・毛利家の窮地だという、強い意識があったと容易に想像できる。
 つまり、徳川家と豊臣家という対立構造が、戦国時代から底流に脈々と生きていたのだ。少なくとも、その片鱗をみることができる。

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 第一次長州征討は、毛利家の家老や参謀の切腹や斬首で決着をつけ、広島城下の国泰寺で、幕府側の首実検をして、決着をみた。

 ところが第二次長州戦争へと、徳川家茂将軍の采配の下で、大勢の幕府軍が広島表にやってきた。浅野家は徹底した抵抗運動をおこなう。
 執政(家老)・辻将曹、野村帯刀のふたりが幕府から謹慎処分をくらう。藩校出身者の若者55人が小笠原老中の暗殺計画を街角にはりだす。


 浅野家の藩主から末端の家中まで、これほどまでに巨大な徳川家に盾つける抵抗運動はどこから来ているのか。その精神とはなにか。北の政所・ネネを嫁がせた浅野家は、豊臣家の本流だという自負心である。
 毛利家は豊臣方の総大将で、敗れて萩に落ちた。ここは見捨てられない、という意識がなければ、500万石の徳川家にたいして、42万石の浅野家がつよく楯突(たてつ)けない。

 それでも、第二次長州征討が起きてしまった。宮島の大願寺で、幕府の勝海舟と毛利家臣との間で、休戦協定がむすばれた。

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 徳川家がやがて、威厳を保つために第3次長州征討を言いだした。

「こんな徳川政権ではわが国を亡ぼす。亡国となれば、民が外国人の農奴・奴隷となろう。徳川家には政権を奉還し、天皇の王政社会にしよう。浅野家は正論で行こう。正論を堂々と言えるのは、秀吉公にネネを嫁がせた浅野家だけだ」
「徳川はまだまだ強い勢力を持っております。毛利家は朝敵で、倒幕に役立ちません。島津家は密貿易と贋金づくりで、徳川の公儀隠密や密偵にびくびくしております。後からはついてくるでしょう。いま、わが浅野家が徳川幕府の倒幕に動かずして、どこの藩がうごきましょう」
「浅野家が倒幕の先がけになろう」

 浅野家は藩校・頼山陽を生んだ。日本外史の皇国思想の下で、反論を一致し、真っ先に徳川家に反旗を挙げたのだ。

 やがて島津家、毛利家をも巻き込んだ。
 藝薩長の軍事同盟の成立を見たが、いっとき土佐の後藤象二郎に振りまわされて失敗した。しかし、それも立て直しができた。


 徳川慶喜将軍が、世の意表をついて、短期間で大政奉還を成した。はたして、天皇・公卿ら朝廷は国家統一の政権運営ができるのか。

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 大政奉還後の、天皇制には2つの問題があった。

① 天皇は軍隊を持っていない。幼い明治天皇がいつ徳川方に浚(さら)われるかわからない。天皇が指揮命令できる皇軍が必要である。

② 天皇制を敷いても、収入が全くなかった。税収がないと、国家統一の行政はできない。

 この2つの問題を解決しないと、後醍醐天皇の建武の中興 (けんむのちゅうこう)の二の舞になる。足利尊氏(あしかがたかうじ)の謀反で、ふたたび武家政治に戻ったように。


「これは防ぎたい。二つの課題を達成する」


 広島藩主の浅野長訓(ながこと)、世子・長勲、執政・辻将曹らが、有能な家臣を使って、小御所会議(慶応3年12月9日)の開催の根回しに走った。そこで、王政復古の大号令による明治新政府の誕生をめざす。
  
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 寺尾生十郎は慶應3年10月23日の広島を発ち、薩摩藩主、土佐藩主へ、某は宇和島藩主へ、とむかった。
 寺川文之進は松平春嶽に会う使者として、おなじく同月23に広島を発ち、同28日に福井に着いた。そして、春嶽に会う。
「新たな王政の国事に尽力してほしい」
 と膝を交えて協議する。


 大政奉還から約10日後である。
 徳川家は政権を放棄したというが、どの大名家も、内実はどうなのか、とわかっていない。混沌とした政治状況下で、だれもが疑心暗鬼だった。このさき徳川慶喜将軍とはどう向かいあうべきなのか。

 人間は誰もが明日を完全予測できない。
 
『京都に上京し、国事に尽力していただきたい』
「王政復古は賛成だが、徳川家には260余年の御恩がある」
「御意に」
「わが家は松平家だ。尾張家も同様だろう、あちらは徳川家だ。新政府の政治に協力したいところだが、徳川宗家・将軍家には不義理になってしまう。国家のためならば、たしかに広島藩の言うとおりだ、もう慶喜公には政治の場から下りてもらうしかない。余(春嶽)はその板挟みで迷っておる」
 どの大名も、浅野家の使者の熱意から、広島藩の本気度をさぐっているのだ。

 遠くて近いのが歴史だ。天下人の秀吉の妻として北政所は、朝廷との交渉を一手に引き受け、家康すらも助けられている。この『浅野家』には、豊臣政権時代の影を感じさせるのだ。だから、浅野家は堂々と論陣を張れるのだ。

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 広島の使者は、主君(長勲)の命令だから、結果をだす必要がある。上洛・小御所会議の参列に乗らなければ、かえって情報が他に漏れてしまう。
「長勲公からの親書は受け入れ難し、お受け取りできません」
 と突き返される。

 宇和島藩・伊達宗城公への使者は、おおかた失敗したのだろう。
「芸藩誌」には使者の名前が「某」とのみ表記されている。伊達宗城は12月9日の小御所会議に参加していない。
 使者・某は説得に失敗し、切腹している可能性がある。

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 福井で春嶽に直接会った寺川文之進は、松平春嶽が小御所会議に上洛する、と承諾を取り付けた。翌29日付長文で『~ 越前福井より 春嶽 拝復』が手渡されている。
 寺川はそれをもって急ぎ広島に帰藩している。
  
 この一連の動きのなかで、広島藩の浅野家臣・寺川文之進が、浪人の坂本龍馬を福井に連れて行った可能性が大である。

 応接掛(外交官)の寺川が、大物の松平春嶽と小御所会議招集を語る重大な場に、浪人風情の龍馬を同席させるはずがない。


「拙者は春嶽公に会う、そなた龍馬は、謹慎の身である由利に会ってくれ。いずれ、謹慎を解いてもらい、明治新政府の財源づくりの役に付いてもらう人材だ。ここら具体策を双方で話しておいてくれ」
 寺川が龍馬に、そう指図したと理解する方が自然である。
 

 明治新政府が誕生すると、浅野長勲公が大蔵卿になり、由利 公正(ゆり きみまさ)が財政を担っている。その根回し役が、浅野家臣・寺川文之進だった。

 坂本龍馬の福井行きは、広島藩・寺川文之進の行動と、浅野長勲の施策と並列してとらえないと、たんなる想像の世界となってしまう。
 浅野家の家史「芸藩志・第81巻」を読みたまえ。


                               【つづく】


 写真: 穂高健一『坂本龍馬と瀬戸内海』ま雑誌連作の2回目「いろは丸事件」です。2010年5月号。
 ちなみに、いろは丸事件が起きた慶応3年4月です。
半年後の秋口から、藝薩長同盟の成立、慶喜の大政奉還、龍馬の福井行き、龍馬暗殺、御手洗条約、3藩進発(挙兵)、小御所会議による明治新政府誕生と、目まぐるしく幕末動乱に及びます。

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