歴史の旅・真実とロマンをもとめて

坂本龍馬関係者よ、「龍馬の真贋ならば」、「芸藩志・第81巻」を読みたまえ(上)

 坂本龍馬の福井行・由利公正(ゆりきみまさ)の手紙が出たとか、折々に、世のなかを大騒ぎさせている。

 その手紙や史料の「真・贋」は、学者の判定に任せている。
 古文書シンジケートが巧妙に偽造し、売りつけているのでは、とわたしは疑問におもうことすらもある。
 なぜならば、手紙の内容をみると、現代の薩長史観からであり、広島藩側からみると、これは実態に合致していないし、嘘だ、と明瞭におもわれるからだ。
 たとえば、龍馬の福井行は、かなり怪しげな手紙だといえる。

「広島藩の志士」、「神機隊物語」と歴史ものの出版が重なり、このところ私は講演に招かれることが多い。「龍馬の福井行」の質問がよくでる。
 龍馬ファンは真実を知らないのだな、広島側からみれば、いとも簡単にわかるのにとおもう。
「龍馬は政治にはさして絡んでない、鉄砲密売人の目で見るべきですよ」と応えている。

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 芸州広島藩の世子・浅野長勲は、慶応3(1867)年、京都の小御所(こごしょ)会議による、明治新政府の誕生を強くはたらきかけた人物である。その開催準備には、命をかけた、並々ならぬ努力をしている。

 4月1日に、拙書「芸州広島藩 神機隊物語」(平原社)を発刊した。同書P139には、慶応3年10月30日、浅野長勲(ながこと)が広島藩船でみずから岩国新港にでむき、朝敵で領地の外へ出られない毛利家世子の長門守、木戸孝允(きどたかよし)らと直接会談をおこなった、と記載している。

 現代流にいうと、封鎖された北朝鮮に、当時・小泉首相があえてみずから同国にでむき、拉致被害者たちの帰国問題を話し合った。
 長勲の朝敵・長州行の行動は、あの小泉さんの行動に似ている。封鎖された相手の要人は、隣国の広島でも、正面切って出てこれないのだから、こちらからでむく行為だ。

  わたしは平成22(2010)年3月から、雑誌に『坂本龍馬と瀬戸内海』を6回にわたり連載した。徹底取材した経験から、龍馬の知識はかなりあるつもりだ。
 しかし、当時は広島藩の実態を知らなかった。だから、薩長史観にもずいぶん影響されていたとおもう。(写真・第1回です)


 それから約8年間にわたり、わたしは幕末広島藩を追求し、同藩の活躍をふかく知ることができた。一方で、坂本龍馬の虚像メッキが随所で、あばたのごとく剥がれてきた。
「ずいぶん英雄視されすぎてきたな」、という近況のおもいだ。

 歴史は真実でなければならない。間違いはまちがいとして糺(ただ)す。それが作家の責務だろう。『坂本龍馬と瀬戸内海』の一部否定も含めて、龍馬を記してみたい。

 浅野家の家史「芸藩志」は、橋本素助・川合鱗郎編さんしたものである。明治42(1909)年に完成した。約300人の編さん員がかかわっていた。
 ところが、明治政府は驚愕とした。あまりにも官製幕末史とちがい、「藝薩長による倒幕」と歴史の真実がずばり書かれているからである。修正などさせず、即刻そのまま封印させた。訂正がないことが、現代ではかえって幕末史がリアルになった。

 昭和53年にわずか300冊が復刊として世にでてきた。
 司馬遼太郎『竜馬がゆく』の完結が昭和41年だから、それよりもなお12年後に、幕末広島藩の実態がほんのちらっと世に芽が出たことになる。
 これはなにを意味するか。
 司馬遼太郎は芸藩志をまったく知り得ずして、坂本龍馬を描いた。これは事実だ。つまり、明治政府がねつ造した官製幕末史と、司馬氏の想像でできた読み物が、さも幕末史のごとく信じられて歴史街道の中心で大手を振って歩いてきた。それが司馬史観である。

 毛利家は倒幕にはほとんど関わっていない。しかし、司馬氏が「薩長倒幕」の視線で、龍馬を書いているから、生の龍馬の実態とはかなり乖離(かいり)している。

 倒幕に動き始めた先がけは、広島藩である。慶応2年の長州戦争、家茂将軍の死去、孝明天皇の崩御、そのうえハイパーインフレで民が塗炭(とたん)の苦しみで「えいじゃないか運動」が起きたときだ。
「もうこんな徳川家に政権を任せていられない。わが国が西洋諸外国に攻撃され、亡国となるおそれがある。王政で国を作り替えよう」
 広島藩は頼山陽を生み出した。山陽が藩校・学問所の助授のまえに書き上げたのが日本外史だ。後輩の藩士たちは日本外史を歴史書として学んできた。
 だから、「倒幕のさきが」の藩論統一は容易かった。

 人間だれもが「明日はわからない」。歴史は後ろからみれば、徳川家の倒幕など、既成路線、ごく自然に歴史の必然におもえる。しかし、一口で倒幕というが、民が将軍の悪口を一つでもいえば、獄門・死罪の時代だ。
 神田に住む職人が、仲間がつい口を滑らせて、公方様の悪口を言ったので相槌をうったところ、八丁堀が家にずかずかと入ってきて、後ろ手に踏縛り、「御用だ、神妙にしろ」と引き立てた。入牢から19日後に、牢から引き出されて取り調べ、拷問に及んだ。(拷問は老中の許可がいるために、19日後になったのだろう)。
 
 こんな時代に、倒幕など口にすれば、外様大名、譜代大名を問わず、改易、お家とりつぶしに遭う。
 徳川家の倒幕のさきがけは、歴史を後ろからみるほど、安易な行動ではない。内密、極秘で、展開する。薩摩藩すら、久光は公武合体派で貫らぬいていたし、徳川家に盾つく気など毛頭なかった人物である。
 
 広島藩はその環境下で、倒幕運動をやってみせたのだ。まず大政奉還へとうごく。薩摩と手を結び、朝敵・長州をつかって慶応3年に藝薩長同盟を結ぶ。その後、いちどは後藤象二郎に裏切られながらも、大政奉還にすすむ。

 徳川家は政権を戻しても、それはまだ表向きで、王政のトップの座を狙っている。

 ここから、芸州・広島藩はふたつの動きに出る。一つは約6500人の天皇の皇軍(近衛兵)として、「藝薩長」の3藩による軍事挙兵である。長州藩は広島藩の軍服・徽章、戦旗を持たせて、カムフラージュし、上洛させる。3藩進発、という御手洗条約がやがてむすばれる。

             *

 芸藩志が封印されたのは、この3藩進発が最大に影響したのだろう。

 明治政府の長州閥の政治家には、2000人の長州兵がかつて広島藩・浅野家の軍服で挙兵されせられたという嫌な思い出がある。
 制服は武士(軍人)にとって自国のもっとも象徴するもの。3藩進発のときは、怒り心頭でも、従わざるを得ず、朝敵の汚名のつらさを感じ取っていたにちがいない。

 長州出身の政治家は明治時代の頂点に立った。薩長倒幕だと胸を張っていた。浅野家の家史「芸藩志」は冷や水を浴びせる、最大級の屈辱をよみがえらせたのだろう。
「こんなものの、世に出すな」と怒鳴る総裁級の政治家の姿が、容易に想像できる。

                            【つづく】

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