A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

神機隊~志和で生まれた炎~≪6≫藝薩長軍事同盟の倒幕=プスネット連載より 

 幕末史は謎めいたミステリーがある。

 慶応3年10月15日の大政奉還から、同年12月9日の小御所(こごしょ)会議(京都)で明治新政府ができる間、約一か月半にわたり、幕末史の空白がある。全国にまたがって大名、公卿などの史料が皆無なのだ。
 なぜ、こうも歴史が消される必要があったのか。
 推量の段かいだが、明治政府による歴史資料の焚書(ふんしょ・書類が焼かれる故事)の可能性が高い。薩長閥の政治家が、「薩長倒幕」をいう用語を正当化する、悪質な歴史のねつ造があった、と見なしても、まず間違いないだろう。


 くわしくは拙著「広島藩の志士」(南々社)の「まえがき」、「あとがき」には歴史の真実を折り曲げる、ねつ造、改ざんの証拠だてを克明に記している。


 神機隊幹部の黒田益之丞(ますのじょう)、船越洋之助、川合三十郎、小林柔吉(じゅうきち)などが、浅野長勲(ながこと)や辻将曹(つじしょうそう)の手足となり、京都や大坂で、諸藩の同志と連絡をとり、活発な倒幕活動する。
「倒幕の主役は広島藩だった」とそれら展開が同書で展開されている。明治政府がつくった「官製幕末史」や「司馬史観」に影響された鵜呑みの人には、広島藩が主役とはかつて考えも及ばなかっただろう。


 同年9月に薩長芸3藩による大掛かりな挙兵(きょへい)が成立した。芸藩誌は「藝薩長」と記す。薩摩藩も広島藩と長州藩の上洛の挙兵が、準備万端と整った。実行に移りはじめた。

 ところが、薩芸と手を組めなかった土佐藩の後藤象二郎が、二藩との密約に反し、大政奉還の建白書が幕府に提出したのだ。結果として、後藤は広島藩が「軍事圧力で大政奉還を迫る作戦」を横取りされたうえ、山内家が建白書の紙っペラを提出したのだ。

 薩芸は信義にも劣る後藤象二郎だと、怒り心頭だったが、結果として、薩長芸軍事同盟による挙兵は、後藤にふり回されて失敗した。
 

 あらためて京都で、薩長芸による軍事同盟を結び直がおこなわれた。徳川慶喜の大政奉還とおなじ時機になった。

 同年11月末には、広島藩が主導した藝薩長による挙兵・3藩進発(しんぱつ)は約6000人の軍隊にもおよぶ。突然、畿内にあらた最新式武装の兵力だった。幕末で最大級の挙兵を成功させたのだ。
 だれが、いつ、どこかで、ち密な作戦を練ったのか。それは歴史の謎である。


 確認できるところから、ひも解いてみよう。

 芸州広島藩の浅野家・家史「芸藩誌」によると、慶応3年10月末、広島藩世子の浅野長勲が岩国新港に出向いて毛利の世子と会う。
 同10月晦日、長勲が木戸孝允を乗船させて広島に着く。(長州は朝敵だから、大手を振って広島藩領に入れない)。木戸孝允は船越洋之助に会ったり、広島城で長勲と細かく密議する。


 薩摩の密貿易港でもある御手洗(広島県・大崎下島)で、4藩の大物があつまり、挙兵計画がち密にねられたのだ。木戸孝允は御手洗に出向いた。この御手洗の密議は、4藩の関係者の日記が現存しない。
 まさしく、明治政府による焚書だ。


 明治初期の御手洗港(大崎下島)(御手洗重伝建を考える会・提供)


 歴史はいくらねつ造しても、どこかに漏れがあるものだ。
 60年間沈黙を守った新谷(にいや)道太郎(御手洗出身)の口実自伝があった。昭和10年発行で、諏訪正編「維新志士・新谷翁の話」がある。
 そこには同年11月3日から6日まで、広島、薩摩、長州、土佐による「4藩軍事同盟」が大崎下島・御手洗でおこなわれたと記す。
 
 どんな挙兵だったのか。

 橋本素助・川合鱗三編「芸藩志」第八十二巻に、くわしく書かれている。
『長藩(長州藩)の一半はわが藩兵(広島藩兵)を装うために、軍旗、徽章など皆わが広島藩と同じにした。御手洗を出航し、淡路沖に停泊する。27日、兵庫沖にて、川合三十郎(神機隊)が長州人を同地に上陸させる。このとき幕兵が通過したので、長兵は打出浜より上陸し、後日、西宮に転営させる』


 長州藩兵は、広島藩の軍服・広島の軍旗をもって、毛利の家老を罪人の搬送をやったのだ。これは歴史的事実だった。これが長州藩の恥部となり、広島藩は恨みを買った。
              
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 慶応3年12月9日に明治新政府が誕生した。毛利家の朝敵も解除され、西宮に待機して長州藩が大坂経由で上洛した。さらに土佐藩も京都に挙兵してきた。

 ここの藝薩長土の軍隊が出そろう。明治天皇の近衛兵(このえへい)が主目的だった。後醍醐(ごだいご)天皇が「建武(けんむ)の中興(ちゅうこう)」で失敗したように、武門政治(ぶもんせいじ)にもどさせないためのものだった。


 ところが戦争思考が強い西郷隆盛が「島津幕府」をめざして、「鳥羽(とば)伏見(ふしみ)の戦い」を仕掛けたのだ。つまり、天皇を守る皇軍が、薩摩藩の政権欲に使われたのだ。


 広島藩兵は伏見に出陣していた。平和主義の辻将曹は一発の銃弾も撃たせなかった。「徳川家の大政奉還で平和裏に政権移譲がおこなわれている。天皇を守る軍隊を、会津と島津の遺恨に使うな」という指示を出していたのだ。

 辻将曹の判断が、薩長の軍隊の反発を招いた。芸州広島藩が明治政府の主流から外された、主なる原因となった。

 明治後半、内閣総理大臣まで輩出した長州藩士としては、毛利家の家臣なのに広島軍服で鳥羽伏見で戦った、長年の屈辱だったのだろう。
 藝薩長軍事討幕から、德川倒幕から藝州広島をはずし、「薩長倒幕」という言葉に帰られたのだ、それが焚書になったと十二分に推量できる。

 大崎下島の御手洗の金子邸で協議の上、3藩進発(挙兵)で、軍略にしろ、毛利家の藩士が他の制服を着せられるのは、耐え難い屈辱なのである。そのうえ、わが毛利家・家老を罪人護送させた役をやらされた。この屈辱と怨みが底流にあったから、それを明記した浅野家史「芸藩志」が封印させられたのだ。



 鳥羽伏見の戦いのあと、北関東、北陸、奥州で、旧幕府軍が反乱・暴走して戦火が拡大した。
 このままでは5年、10年戦争となり、西洋の侵略の口実にもなりかねない。わが国が重大な危機におよぶ。
 そう判断した広島藩・神機隊は、藩庁に出兵申請をした。藩内の認識は「島津幕府」づくりの戦争だ、徳川幕府を薩摩幕府に変えても、何になろうと拒否した。

 しかし、藝薩長同盟の中心となって活躍した神機隊の若者たちは、このままだと戊辰戦争が国内のし烈な内戦に拡大していく。早期に戦争を終結するのが民の安堵になるし、外国の餌食になるのを防ぐことになると、自費で約320余人が奥州戦争への出陣をきめたのだ。

「芸州広島藩 神機隊物語」には、『民のために生命を惜しむなかれ』とかれらを克明に記している。
 この東西に分かれた戦争では、日本の260余藩からそれぞれ複数の諸隊、草莽の隊、旧幕府軍など合わせると、軍隊は数千の数におよんでいる。
 そのなかでも、全額自費は広島藩の神機隊だけである。

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