歴史の旅・真実とロマンをもとめて

神機隊~志和で生まれた炎~≪5≫隊を創設した木原秀三郎=プスネット連載より 

 木原秀三郎(適處)はどんな人物か。
 東広島市高屋町(旧・檜山村)の庄屋で、志高く、満27歳で長崎に遊学している。その後は江戸で勝海舟の門下生になり、築地の軍艦操(そう)練所(れんしょ)で航海術、砲術を学ぶ。やがて、広島藩・江戸藩邸で抱えられ、応接方(おうせつがた)(藩の外交官)に任命された。広島に帰国して軍艦付となった。

 第二次長州征討のまえ、広島藩の若者たち55人は切腹覚悟で、小笠原老中の暗殺で戦争を止めようとした。木原もいた。しかしながら、戦争が勃発した。

 長州藩兵が岩国から小瀬川(おぜがわ)を越えてきた。芸長の不可侵条約を無視し、幕府軍を追って大竹、大野、廿日市、広島城下近くまで攻めてくる。この間、広島領民にたいして強奪、略奪、放火までやった。

 広島藩の農兵といえば警防団ていどで役立に立たず。やがて、西洋式軍隊の紀州藩兵と幕府海軍の艦砲射撃で、長州藩兵は岩国まで追い返された。

 木原は農閑期のみ訓練をする農兵でなく、毎日、訓練する壮兵(そうへい)(職業軍人)の軍隊をつくるべきだと、約一年前から主張していた。木原は洋学をも学び、世界最強のイギリス軍隊の知識があったのだ。
 
 広島藩庁は、領民の大被害を知り、やっと木原の考え方を理解し、神機隊の創設を許可したのだ。
 志和盆地の地形・風土を知りつくす木原が、本拠地を志和にきめた。

 結成時、志和冠村の庄屋・近藤権之助が山野の練兵所、食糧の確保、兵舎づくりなどおおいに協力した。優秀な家中(浅野家臣)が約30人と、賀茂郡八十八か村を中心に近郊から1200人が隊中として入隊してきた。
 藩庁の許可は200人の費用のみだった。

 差額の隊費は、藩の要人・小鷹狩(こだかり)介之丞(かいのじょう)が配慮し寄付金でまかなった。武器弾薬は、武具奉行の高間多須(たす)衛(え)(省三の父親)が、西洋式最新銃と銃弾を貸与し、志和練兵所の訓練では十二分につかえた。

 神機隊の優秀な家中が交代で、城下から約30キロの志和にきて、数日間は寄宿し、寝食をともにし、思想教育、軍事教育、軍律の厳しい指導にあっても、家中・隊中の人間関係は良好で、日本最強の軍隊をつくりあげていくのだ。

                     【つづく】


 【関連情報】

① 神機隊~志和で生まれた炎~ 「プレスネット」に歴史コラム10回連載しています。
 同紙は毎週木曜日発行で、掲載後において、「穂高健一ワールド」にも、同文で掲載します。今回は第4回目です。
 
② ㈱プレスネットの本社は東広島市で、「ザ・ウィークリー・プレスネット」を毎週木曜日に発行している。日本ABC協会加盟紙。
 日本タウン誌・フリーペーパー大賞2017において、タブロイド部門『最優秀賞』を受賞している。

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