A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

神機隊~志和で生まれた炎~≪4≫隊の精神「死を惜しむなかれ」=プ4スネット連載より 

 第二次長州征討まえ、広島藩・執政(しっせい)ふたりが謹慎(きんしん・幽閉)処分をうけた。
 これは幕府の権威主義で、わが広島藩を蔑(ないがしろ)にしたものだと、藩校・学問所の有志55人が怒り、老中暗殺の予告にでた。そこには船越洋之助、川合三十郎、木原秀三郎、高間省三などがいた。
 安政2(1866)年5月23日のことだった。

 神機隊の歴史の始まりでもある。

『諸君、死を惜しむなかれ。もし死を躊躇(ちゅうちょ)するならば、だれが国論の統一を成し遂(と)げられるというのか』
 秀才の星野文平(御手洗出身)が、同窓の船越洋之助、川合三十郎らにいい残し、3年前に割腹していた。死を惜しむなかれ。これが神機隊の精神になった。

『逆党の小笠原壱岐守・室賀伊予守の首級を六月一日までに討取り 神明正道に備へん』
 広島城下の5か所に、かれらは張り紙をだしたのだ。老中の命を狙う、幕府の逆鱗(げきりん)に触れて斬首である。

 これを事前に知った世子・浅野長勲(ながこと)が、そなたらは行動するな、余が小笠原を殺(や)ると止めに入っていた。これが徳川家の耳に入れば、最悪は幕府が長州藩と戦うまえに、広島藩と戦闘になりかねない。

 第11代藩主の浅野長訓(ながみち)はどんな策を取ったのか。広島城に小笠原老中を呼びだし、「広島藩は長州との戦いの先陣だが、参戦しない」といい渡した。
 だれが考えても、火に油を注ぐものだ。
「あなたの身の安全は確保できないから、早々に広島から出て行ってくれ」と冷たくもうし渡した。小笠原老中は反論できず、スゴスゴと小倉に移った。


 豊臣秀吉の正室・寧々(ねね)(北の政所)は浅野家から嫁いでいる。徳川家康すらも浅野家には一目をおいていた。先の第10代藩主の浅野慶熾(よしてる)は、徳川家(いえ)斉(なり)将軍の実孫であり、家慶(いえよし)将軍のオイだった。

 浅野家はき然と幕府にものがいえた格式ある家柄である。老中・松平宗(まつだいらむね)秀(ひで)が5月28日、広島に着任した。
 浅野長訓にいわれて6月2日には執政の辻(つじ)将曹(しょうそう)が謹慎を解かれた。(野村帯刀(たてわき)はそれ以前に謹慎が解かれていた)。
 浅野家が藩論一致で、徳川家の倒幕にうごきだす契機はこの時点にあった。


 【関連情報】

① 神機隊~志和で生まれた炎~ 「プレスネット」に歴史コラム10回連載しています。
 同紙は毎週木曜日発行で、掲載後において、「穂高健一ワールド」にも、同文で掲載します。今回は第4回目です。
 
② ㈱プレスネットの本社は東広島市で、「ザ・ウィークリー・プレスネット」を毎週木曜日に発行している。日本ABC協会加盟紙。
 日本タウン誌・フリーペーパー大賞2017において、タブロイド部門『最優秀賞』を受賞している。

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