歴史の旅・真実とロマンをもとめて

神機隊~志和で生まれた炎~≪3≫神機隊発足の芽生え=プレスネット連載より 

 長州藩は倒幕の主役ではなかった。毛利家は藩内の内乱ばかりで、明治新政府樹立まで表立って関わっていない。そういえば、「えっ、ウソ」とおどろく人は多いだろう。

 慶応3年10月15日の大政奉還では、長州藩はカヤの外である。同年12月9日の京都の小御所会議(こごしょかいぎ・写真)で、明治新政府が誕生するが、このとき主な長州藩士で京都にいたのは品川弥(や)二郎(じろう)だけである。
 情報収集で潜伏(せんぷく)する品川ひとりをもって巨大な徳川政権を倒した主役だとはいえない。

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 倒幕の足音はいつからか。
 天保・天明の大飢饉(だいききん)で、徳川政権の経済基盤が傾き、ペリー提督の来航から鎖国(さこく)防衛ができず、開港へとおよんだときである。

 日米通商条約が締結されると、外国人を排除する攘夷(じょうい)運動が盛んになった。長州藩が朝廷をかつぎだし、国内政治の中心を江戸から京都の天皇へと移させた。
 しかし、長州藩はあまりに過激攘夷すぎて、孝明天皇からかえって排除された(八月十八日の変)。

 毛利家の三家老が失地回復をもとめて、元治元(1864)年、軍隊を引き連れて京都に挙がり、禁門(きんもん)の変(へん)を引き起こした。御所にむけて発破し、藩邸に火を放ち、京都の約半分を大火災にさせた。

 激怒した孝明天皇が、長州を征伐せよ、と家(いえ)茂(もち)将軍に命じたのだ。
 これでは勤王を標榜(ひょうぼう)する長州にとっては台無し。幕府と天皇を敵にまわして倒幕どころか、本州の西端に封鎖された。
 朝敵の毛利家中は京都にも、広島すらいけない禁足が、王政復古による明治新政府誕生までつづいたのだ。
 ところで、第一次長州征討は、長州藩の関係者の切腹・斬首で終わった。その後、長州藩内で高杉晋作など過激派の力が強まり、德川幕府はそれを危険視し、第二次長州征討へむかっていく。

 広島藩が戦争回避の周旋にのりだした。
 小笠原老中が広島に赴いてきた。広島藩の執政(実質・家老)の野村帯刀が小笠原に強く非戦の意見を具申する。逆に謹慎処分にされた。同様に、辻将曹・執政が大儀のない戦争だとくりかえし、謹慎。怒った優秀な若者55人が、切腹覚悟の行動にでた。ここから神機隊発足への芽生えとなった。

                       【つづく】  

 【関連情報】

① 神機隊~志和で生まれた炎~ 「プレスネット」に歴史コラム10回連載しています。
 同紙は毎週木曜日発行で、掲載後において、「穂高健一ワールド」にも、同文で掲載します。今回は第3回目です。
 
② ㈱プレスネットの本社は東広島市で、「ザ・ウィークリー・プレスネット」を毎週木曜日に発行している。日本ABC協会加盟紙。
 日本タウン誌・フリーペーパー大賞2017において、タブロイド部門『最優秀賞』を受賞している。

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