歴史の旅・真実とロマンをもとめて

幕末の御手洗「薩芸交易」の舞台に脚光 

「大政奉還150年御手洗大会」が、 ことし(2017年)10月14日に、広島県・大崎下島の御手洗港で行われた。
 同港の乙女座で、同講演のなかで「薩芸交易」から長州を巻き込んで、「薩長芸の軍事同盟に進み、それが大政奉還へと進んだ」と私が御手洗からの倒幕を語った。
 経済は政治を動かし、歴史を作る。経済の視点から、多くを語った。

 一般に幕末の歴史を語るとき、年表、あるいは政治史から語られてしまう。となると、歴史を後ろから見た辻褄(つじつま)合わせに陥りやすい。徳川倒幕が必然だと結果ありきになってしまう。
「薩長討幕」ということばすら、疑問のひとつも持たない。

 慶応3(1867)年12月9日に、明治新政府ができた。このとき、長州藩士で京都にいたのは、わずか品川弥二郎ひとり。これをもって薩長討幕はおかしくないだろうか。

 明治時代はいつからか。大政奉還、小御所会議の王政復古による明治新政府樹立がなされた慶応3(1867)年であり、、教科書で教えている一八六八年はおかしくないだろうか。

 もし戊辰戦争が終了した時点となると、箱館戦争(はこだてせんそう) 1869年になる。だれがいつ一八六八年と教えはじめたのか。


 それは明白である。
 明治新政府ができたとき、長州藩士で京都にいたのはわずか品川弥二郎ひとりとなると、ここから長州藩が倒幕に関わったとはいえない。
 まして、慶応3年の11月末には、長州藩の軍隊は薩長芸軍事同盟のもとで、御手洗港から進発し、淡路島沖、西宮、尾道で待機していたのだ。待機では、倒幕の主力とは言えない。
 長州藩の家老や藩士は、明治新政府の樹立を聞いたのみだった。ここらは歴史的事実だし、多くが小御所会議にかかわっているから、長州なんて、ひとりもいなかったじゃ、恰好つかない。

 長州閥の政治家としては、明治天皇が「五箇条のご誓文」を誓った一八六八年とするか。こんなところだろう。

 このように歴史は疑ってみることだ。鎌倉幕府だって、今頃になって年号が変わるご時世だ。そろそろ明治維新は、明治天皇が戴冠した、大政奉還、明治新政府の樹立という歴然たる事実がある慶応3年くらいに修正しないと、恰好がつかない。

 広島県の御手洗に話が戻れば、御手洗港は、薩摩の海外密貿易の湊だった。

 薩摩藩は長崎でなく、この島に外国船を入港し、綿やお茶を輸出し、武器弾薬を輸入していた。そのうえ、贋金づくりの地金は広島藩産出の銅・鉄を使う。この御手洗会所から入手していた。

 密貿易、贋金、となると、徳川幕府の下では御禁制である。一つ間違えば、島津家が改易(とりつぶし)に遭う。危険な証拠書類や証拠品はできるかぎり処分している。
 
 中国新聞は11月9日の文化欄で、表題『「薩芸交易」の舞台に脚光』と大きく報じてくれた。林淳一郎記者の署名記事である。

『大政奉還150年、広島藩の役割、解明の鍵』として、私(穂高健一)の後援と、広島県立文書館の広島藩史に詳しい西村晃総括研究員の紹介を載せている。

「薩芸交易について、知る人ぞ知る出来事。おこなわれたのは確かだが、史料は限られ、全容はぼんやりしている」と西村さんの談話を紹介している。
 
 歴史は勝者がつくる。案外、史料は焼却されていないものだ。これから幕末史研究者やファンは御手洗が面白いだろう。
「御手洗から明治維新がはじまった」
 この視点から探れば、掘り出し物が出てくるだろう。

 お金に余裕があれば、オランダ、イギリス、フランスの公文書の史料から『MITARAI』を徹底して調べられると、御手洗の密貿易の実態が浮かび上がってくるだろう。メッキ二分金をつかまされて軍艦、鉄砲を売ったイギリス商人あたりは怒り心頭で、証拠の資料は豊富にあるかもしれない。
 明治2年には、高輪談判(イギリス・フランス・アメリカ・イタリア・ドイツの5ヶ国の駐日公使による会談)で、大問題にもなったくらいだから。その調査資料は5か国にはあるだろう。

 幕末の御手洗港の薩芸貿易という経済問題から歴史をみていくと、闇の世界、裏の世界、汚い手口から政治が動くとよくわかる。『MITARAI』から幕末史が変わる可能性は高い。

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