A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

芸州広島藩はなぜ大政奉還に進んだか (下)=御手洗大会の講演より


 御手洗の豪邸の白壁には、デザインとして鹿児島・桜島の岩石が使われている。

 まさに、薩摩文化の土地柄である。

 薩芸は経済的につよい結びつきがあった。経済が政治を変えるのだ。小御所会議まで、薩芸討幕で進むのだ。

 明治政府の長州閥が、「薩芸倒幕」を「薩長討幕」にすり替えたのだ。そして、義務教育となった小学校の教科書に載せた。


 御手洗の裏山から若胡子屋(お茶屋・遊郭が約100人)をみると、「遊女が逃げられない建物と樹木の構図かもしれませんね」と歴史ツアーの参加者が語っていた。


 午前中は地元ガイドの方とふたりして、御手洗の歴史散策ツアーを行った。

「ここは中世まで、越智水軍の支配地でした。城壁とおなじ石垣の造りです」と地元ガイドが語る。参加者は熱心に聴いていた。


 「明治維新は御手洗から始まった」

 この視点からみれば、芸藩誌と木戸孝允日記の倒幕の展開がぴったり符合している。

① 薩摩藩の藩主・世子が、三田尻(現・山口県)についたとき広島藩に知らせる。

② 御手洗から進発まえに、広島藩船が長州家老を長州に迎えにいく。

③ 上洛の挙兵後は、備後(福山)・備中(岡山)・雲州(松江)も巻き込む。かれらが応じないときは兵力をつかう。

 これらを含めた6か条が、木戸日記と、河合三十郎編さん「芸藩誌」に、はっきり記載されたいるのだ。
 ちなみに、広島藩士の河合三十郎は御手洗の金子邸で、この進発をとりしきり、乗船し、京都まで同行したひとりである。

 木戸は3藩進発が実行に移されると、尾道(広島県)で、陸路をいく1000人の長州軍隊の世話をしていた。
 木戸と川合、これ以上の信ぴょう性の高い人物はいないだろう。


 来年4月1日には、穂高健一著『芸州広島藩 神機隊物語』が出版される。現在は版組の編集や校正がおこわれている。
 その歴史小説では、木戸日記・芸藩誌による、3藩進発をよりくわしく展開している。


 現代の歴史教科書では、江戸時代は鎖国でなかったとか、鎌倉時代の年号が違うとか、聖徳太子の像はちがうとか、大幅な修正がおこなわれている。
 明治時代からの歴史教科書が、ずいしょで否定されてきている。


「同様に、いずれ『薩長討幕』は教科書から消えていきます。倒幕は京都の小松帯刀邸からでなく、広島藩の御手洗から始まった、となりますよ」
 大政奉還150年御手洗大家の講演において、それを強調した。


                                     【了】

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