A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

芸州広島藩はなぜ大政奉還に進んだか (中)=御手洗大会の講演より


 御手洗・金子邸で、150年前の薩長芸軍事同盟を語る。

 慶応3年11月26日、薩長芸の軍事密約により、長州藩の家老ら7隊の1200人が御手洗に到着した。広島藩においても豊安号で422人の兵を送りだしてきた。
(大政奉還の直後に、辻執政が広島藩兵を上洛させている。こんかいは補充追加)

 広島藩と長州藩の軍隊が、御手洗港で合流した。町役人の金子邸(写真)の茶室で、二藩の幹部が、挙兵・出航の協議をおこなっている。
 これが『御手洗条約』と呼ばれるものである。


 朝敵だった長州藩は、天皇の敵であり、偽装を必要とした。長州藩の軍艦二隻の船旗(フラッグ)は、ひとつが芸州、もう一隻は薩摩藩にした。つまり、長州兵らは身なりからしても広島藩士、薩摩藩士を装って、上洛するのだ。


 芸州広島藩と長州藩は併せて7隻の軍艦をつかう。


 同月26日夜8時に、広島藩の震天丸を先頭に、7隻の艦隊が御手洗港を進発した。そして、淡路沖、西宮へと誘導していくのだ。

 この3藩進発は浅野長勲、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通が中心となった空前の6500人の大規模な挙兵だった。


 その事前の密議が、最近まで、密議がどこで行われたのか、幕末史の最大の謎だった。

 それは慶応3年11月初めに、広島藩領の御手洗で行われていたのだ。広島藩士をはじめとして、木戸孝允、大村益次郎、大久保利通ら11人が4日間にわたる密議を行っていた。

 まさに、ここから歴史が動いた瞬間だった。


 「大政奉還150年御手洗大会の講演会場となった乙女座」


 倒幕をどの時点とみなすか。諸説があるが、

 慶応3(1867)年10月15日、徳川家の大政奉還が朝廷から認められた。ここか。同年12月9日には、京都御所・小御所会議で明治新政府が成立した。ここでは徳川幕府が完全に崩壊した。一般的には、この段階で明治政府が樹立している。

 薩長閥の為政者たちは、慶応4(1868)年、天皇が東京に移ったときから明治時代だとおしえた。古来の定義の「遷都」ではないし、当時から「行幸」という小細工で民の目をごまかしたものだ。

 明治新政府はまちがいなく「御一新」の小御所会議である。いずれ、教科書で、明治維新は1867年と書き換えられるときがくるだろう。鎌倉幕府の成立が変わったように。
 むろん、長州・山口県の関係者の方々は、ずいしょで不都合になってくる。


 新政府「御一新」の小御所会議まで、長州藩兵は朝敵であり、京都に入れなかった。長州藩士はわずか品川弥二郎ひとりが潜伏するのみであった。

「わずか一人で、薩長倒幕なんて、歴史の欺瞞(ぎまん)だと思いませんか」

 えっ、ひとりですか。

「これは隠しようもない歴史的事実です。長州は倒幕に役立っていなかったのです」

 なるほど長州藩士が一人じゃ、薩長倒幕とは言えんのう。
 

 日本人は、お上のいうこと、教科書に書かれたこと、それは信実だと鵜呑みにする。だから、明治政府が都合よくつくった『薩長討幕』という表現に、後世の学者や歴史作家たちはふりまわされてきたのだ。

 明治政府が作った『幕末史』だから真実だろう、と考えたのだ。


 いまだに多くの歴史学者は、幕末の芸州広島藩の役割も、御手洗における倒幕密議すらも、まったく知らない。
 否、長州大好き学者すら、木戸日記に書かれている御手洗からの六か条にわたる出兵協約に目を叛けてきたのだ。
 片や、慶応2(1866)年の京都・小松帯刀邸で「薩長同盟」が、龍馬の龍馬の仲介で成した、とことさらこじつけてきた。

 木戸準一郎(当時)は、小松帯刀邸の談論を箇条書きにし、手紙をもって龍馬に裏書きをさせている。
 ただ、そこには薩摩とか長州とか、ひとことも書いていない。この段階で、2藩の軍事同盟などあり得ないのだ。あくまで、談論だ。

 木戸はこの段階で、徳川家が武力をもって毛利家を排除する、と思っていない。その証拠に、大村益次郎に戦術訓練をさせているが、高杉晋作に戦闘配置などつかせていない。
 幕府のいつもの威圧と嚇しだろう、「毛利家の家老を大坂・京都にさしだけといわれても、いまは病気で出むけない、と偽っておけば、それですむ」とかれは思っていた。

 現代でいえば、北朝鮮が、アメリカの軍事威圧はたんなる脅しだと高を食っているのと同じだった。


 木戸とすれば、小松帯刀邸の談論は皇軍挙兵の打診である。木戸の視線はつねに皇国国家の設立にあった。王政の復古で、長州藩はつぶれてもいい、と当時から木戸は発言している。

 木戸には、長州藩を守りぬく意識すらないのだ。町人出(医者)の木戸は、武士社会を壊す一念だった。めざすものは親政で、身分撤廃の四民平等の社会だった。

(いきなり版籍奉還、廃藩置県、四民平等、日本初の萩城・取壊しなど、木戸がやり遂げた。かたや、すぐさま武士社会温存派の長州・騎兵隊を徹底的に弾圧するくらい、武士が威張る社会が嫌いだったのだ)。

 徳川幕府から「島津幕府」に代替えした西郷隆盛の発想と、木戸孝允とは根本が違っていた。
           

                         【つづく】

                             

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