歴史の旅・真実とロマンをもとめて

芸州広島藩はなぜ大政奉還に進んだか(上)=御手洗大会の講演より

「大政奉還150年御手洗大会」が、2017年10月14日が広島県呉市にある御手洗(大崎下島)で、開催された。主催者は「御手洗 重伝建を考える会」、後援は日本ペンクラブである。

 中国新聞が同日の朝刊の一面コラムで、同大会をとりあげてくれた。(9月にも前打ち記事があった)。それらを目にした同紙の読者が、広島、志和、呉、忠海、大崎上島、竹原などから駆けつけてくれた。
 むろん、私と面識のある歴史研究者や歴史愛好家たちが多くいた。



 

 芸州広島藩は、慶応3年に2度も「大政奉還の建白書」を徳川幕府に建白している。土佐藩よりも先に建白した事実がある。

 隠されていた広島藩の幕末史が、最近はしだいに世に知られはじめてきた。中国新聞社から、文化部、論説委員がそれぞれの立場から、同大会を取材にきた。
 

 中国新聞社の文化部・林記者 穂高健一、同新聞社・山城論説委員、主催者・事務局の井上さん。(写真・左から)

 芸予諸島の御手洗は、風待ち潮待ちで、江戸中期より繁栄した港町である。大阪と御手洗は米相場が連動し、西日本の経済の中心地になっていた。
 また、近海は御手洗航路とも呼ばれていたのだ。

 薩摩藩が18世紀から、密貿易港としてもつかっていた。一般には長崎グラバーと薩摩長崎藩邸でとらえられているが、長崎奉行という徳川幕府の強い監視の目が光っている。捕まれば、命がない。薩摩藩士でも、徳川家は怖い存在だ。

 この御手港は、薩摩藩にとって芸州広島藩からの借用地の面があった。同地には1717年の薩摩藩・二階堂の墓もある。幕末にはオランダ商人を長期に逗留させたうえ、薩摩藩は闇の国際貿易をおこなっていた。

 同港の海岸沿いには、他にも17藩の船宿があった。西国の大名が船で参勤交代するときには、大半が御手洗に立ち寄っている。

 繁栄する御手洗には、公娼・お茶屋が4軒あった。遊郭は幕末・維新志士たちのたまり場で、情報交換の場であった。
 倒幕、佐幕、公武合体あらゆる人物たちが、この御手洗に情報を取りにやってきたのだ。

 草莽(そうもう)の志士(脱藩浪士)たちにとって、京都となると会津・桑名藩士や新撰組・見回り組の厳しい目があるし、御手洗のほうがより安全な港町だった。つまり、過激派から佐幕派まで、世上の情報があつまる宝庫だった。
 
 この御手洗から幕末の歴史が動くのだ。
 


 慶応3(1867)年11月に、薩長芸軍事同盟に基づいた3藩が、6500人の最新兵器をもった軍隊を京都へと挙兵する。

 その密儀が事前に御手洗でおこわれた。
 この6500人の軍隊は皇軍(官軍)として、京都御所の警備、天皇の護衛(近衛兵)が目的だった。

 同年12月には、小御所会議で正式に新政府ができた。翌月、西郷隆盛の権力欲から、3藩進発の軍隊が当初目的とはちがい、「鳥羽伏見の戦い」につかわれたのだ。

 このとき、広島藩の執政・辻将曹は、大政奉還で徳川家は政権を奉還しているし、徳川宗家とは無関係だ、これは薩摩・島津家と会津・松平家の私恨だといい、一発の銃弾も撃たせなかった。

 毒舌家の勝海舟は「幕末にろくな家老はいなかったが、満足なのは、広島藩の辻将曹と彦根藩の岡本半介(井伊大老の暗殺を上手に処理して、改易を逃れた)のふたりだけである」と言わしめた。
 辻将曹は大政奉還を最も推し進めた人物であり、徹底した平和主義者だった。辻将曹は卓越した政治感性で、西郷隆盛の腹の内、裏の裏をを見抜いていたのだ。鳥羽伏見の戦いでも、非戦論をつらぬきとおした。

 ここで、広島藩が明治政府の主体から外れていく。

 辻将曹が明治政府の中核にいれば、かれは富国強兵という徴兵制の軍事国家をつくらなかっただろう。まちがいなく。勝海舟は江戸城を無血開城をし、共通するものがあったのかもしれない。

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