歴史の旅・真実とロマンをもとめて

「大政奉還150年・御手洗大会」の歴史的な背景(2)=三藩進発

 慶応3年9月に、薩長芸軍事同盟が結ばれました。翌10月には大政奉還が成立します。この段階で、武門政治の終焉で、朝廷政治に変わります。

 芸州広島藩は2度も大政奉還を建白しています。(広島・浅野家の史料『芸藩誌』による)た。しかし、まだ幕府の存在が継続し、新政府の樹立まで及んでいませんでした。

 同年11月3日から7日まで、薩長芸土の4藩が御手洗で『4藩軍事同盟』を結びます。新政府を正式に発足するには軍隊が必要だと言い、薩摩、長州、芸州広島の3藩は、6500人の西洋式軍隊の挙兵へ動きます。3藩進発(土佐藩は山内容堂の不許可で挙兵できず)。

 
 問題は、当時、禁門の変から朝敵だった長州藩をいかに上洛させるか。それはとても重要な作戦です。

 11月末に、長州の家老以下1500人が、まず御手洗にやってきます。金子邸(役人の私邸)で、芸州広島藩と長州藩が具体的な取り決めをおこないます。長州の軍艦の旗はひとつが芸州、もう一隻が薩摩藩の旗をつかう。3藩進発が実現します。

 長州艦は淡路沖で待機する。一部は西宮・六湛寺に上陸する。さらには長州藩は尾道にも1000人の兵が待機する。(尾道では木戸孝允が出向いて再配を振っています)

 長州藩は、まだ京都に入れずです。孝明天皇から、明治天皇に代わっていますが、朝敵は解けていません。

 翌月に、歴史が大きく動きはじめます。

 12月8日に、この3藩進発の薩摩と芸州広島の兵、さらに従来から京都にいた薩芸の兵が、一気に、京都御所の総ての門を閉鎖します。

 その勢いで、かつて京都守護職だった会津兵、桑名兵、新撰組などは御所まわりから排除されてしまいます。
 翌9日には、小御所会議が開かれて、「王政の大復古」により、明治新政府ができます。と同時に、長州藩は朝敵を解除されます。

【御手洗から明治新政府がスタートした】とも言えます。

 この3藩進発の薩摩兵と長州兵は、西郷隆盛による鳥羽伏見の戦いへと駒を進めていきます。

 芸州広島藩は、「これは薩摩と会津の私恨だ」と云い、伏見にいた藩兵には一発も銃を撃たせません。
 さらには、天皇の親政国家において、「徳川家の首根っこまで、絞め殺すことはない」と平和主義をとります。薩長芸軍事同盟で、倒幕を推し進めてきた広島藩が抜け落ちます。

 薩長の下級藩士は徳川慶喜を討つ、そしてみずから政権の座につくためにも、権力欲と名誉欲とで、戊辰戦争へと突っ走っていきます。

 こうした明治新政府づくりの原点となった、御手洗において「戊辰戦争150年御手洗大会」を10月14日(土)に開催します。

          写真 = 郡山利行 : 御手洗


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