A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【近代史革命】 薩長同盟・薩長倒幕をう呑みにしている、幕末史オンチ

 第二次長州征討のまえ、慶応2年1月、京都の小松帯刀(薩摩)藩邸で、桂小五郎と薩摩側が密談した。小説的にいえば『薩長同盟』が結ばれた。薩摩側にはそんな密約の資料はない。

 慶応2年6月から、朝敵・長州軍は幕府軍と戦う。一般には長州が勝ったという。それはほんとうだろうか。
 大藩・芸州広島藩の執政・辻将曹らの仲立ちで、宮島・大願寺で、勝海舟と長州藩と休戦協定が行われた。

 大願寺の縁側に立った勝海舟が、「そんなところで、ひれ伏さないで。座敷に上がりたまえ」といっても、長州藩の広沢真臣(ひろさわ さねおみ)たちは、恐れおおくも徳川将軍の名代だから、座敷で向かい合う態度などできなかった。
 勝利者の意識ならば、そんな地べたにひれ伏す態度はとらない。長州藩はどこまでも、天皇に逆らった朝敵である。
 幕府軍とはいえ、あいては孝明天皇軍である。かれらはどこまでも「天皇から許しを得られていない賊軍・長州藩」の意識なのだ。
 
 勝海舟は「ならば、拙者が降りてゆこうと」、縁側から彼らの傍に歩み寄った。そして、慶応2年9月には、休戦協定が結ばれた。


「薩長同盟は、大願寺のあと、どうなったのか?」
 ここらは作家も学者もふれていない。「薩長同盟」を声高にいう作家は、この休戦後は「見ざる、言わざる、聞かざる」で頬かぶりである。
 1年が10年のごとく動く時代に、それはないだろう。


 この慶応2年は、徳川家茂将軍の死去、孝明天皇の死去に伴う、相続の大問題が連続して起きたのである。将軍家と天皇家の継承にともなう、新体制づくりが最大重要問題だった。本州の端っこの長州問題など、目もくれていない。

 長州藩は徳川時代が終わる(明治新政府ができる)まで、賊兵・長州の汚名を被っていたのだ。そんな天皇を敵にまわす長州藩は、260諸藩はだれも相手にしない。だとすると、残るは薩摩藩か。
 翌3年、京都で、四侯会議が行われた。長州問題は議題から外されて無視された。薩摩の島津久光などは面子丸つぶれだ。
 薩長同盟など、紙風船よりも軽いものだった。なんの役目も果たしていない。


 慶応3年9月の薩長芸軍事同盟(薩摩、長州、芸州広島)の下で、6500人の最新鋭の武装部隊が上洛する。討幕の歴史はここから動くのである。
 この3藩軍事同盟は、慶応2年1月の桂小五郎と薩摩側が密談『薩長同盟』とは、まったく無関係である。
 幕末オンチは、薩長同盟が芸州広島藩を巻き込んだとしている。それはあまりにも、広島藩を知ら無すぎる。

 当時は家柄がいかに重要か。広島藩主は、大御所・家斉将軍の孫・濃い血を継ぐ。その認識がないと歴史音痴になる。
 浅野家は格式が高い。秀吉の妻・ネネ(北政所、高台院)は浅野家から出てている。徳川家康も一目置く存在だった。
 浅野家は紀州和歌山から広島に転封したが、その紀州には徳川家が入るくらいだ。
 広島藩は42万石とはいえ、秀吉時代から、別格なのだ。江戸城桜田門の目のまえ、一等地、いまの警視庁から霞が関の一帯が「広島藩江戸藩邸」だ。
 ※井伊大老が暗殺されたのは、桜田門外、つまり広島藩江戸藩邸の目のまえだった。

 広島藩主が倒幕の決意した。そこから倒幕の歴史が動きはじめる。そして、薩摩と長州をのみこんでいった。
 なぜ、そう言いきれるのか。芸州広島藩の浅野家『芸藩誌(げいはんし)』には、それが克明に書かれている。
 芸藩誌は明治42年に完成し、明治政府があわてて即座に封印した。(昭和53年に300部が発行された)

 なぜ封印したのか。薩長の下級藩士が御一新の天下を取り、「薩長倒幕」だと教科書まで教え込んでいるのに、広島藩主導だと実態が知れて、歴史が大逆転するからだ。

 ことしは大政奉還150年、らいねんは明治維新150年である。これを機会に、歴史は洗い直されるだろう。

「本州と九州の端っこの2藩が、巨大な徳川幕府を討幕した、これは長く疑問でした」
 この素直な疑問に応えてくれるのが、芸州広島藩の浅野家『芸藩誌』である。芸藩誌の研究者が、少しずつ出はじめた。また、その問い合わせも漸増している。

 芸藩誌が世に広まれば、「薩長倒幕」という言葉が、ごく自然に歴史書から消えていくだろう。そして、司馬遼太郎史観がまかり通り、小説を歴史と信じた、滑稽な世代だったと嘲笑われる日がくるだろう。

 くり返すが、薩摩と長州の2藩が倒幕など、どう逆立ちしても討幕はムリだ。ヒーロー・英雄づくりとはいえ、作り過ぎも良いところだ。

 鎌倉幕府の成立年月日が違っていたように。いまや、歴史の修正は急激な変化となっている。
 

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