歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【近代史革命・鳥羽伏見の戦い】西郷隆盛の苦悶=名将か、愚将か(下)

 鳥羽・伏見で戦火が広がると、徳川慶喜は1月6日に、大阪城の城兵に『徹底抗戦せよ』と指図してから、松平容保や重鎮の老中とともに、江戸城に移っている。

 孫子・呉氏の兵法を知らない、後世の御用学者は「将軍が逃げ帰った」という。京都近郊で戦争が勃発して、最前線に残る将軍ならば、最低の愚将である。

 大阪城の位置づけは、寺社奉行→大阪城代→京都所司代→老中への登竜門である。そんな大阪城に留まり、将軍が捕縛されたら、どうなるのか。
 将軍は本来、最もリスクの少ない安全な場所にいるべきである。本陣の江戸城にもどり、巨視的な立場から、国内外の動きを見ながら、先々を読み、さまざまな指示する。それが知将である。


 慶喜は兵法通り、大坂城を抜け出た。おおかた、影武者も使っただろう。慶喜、松平容保、老中ら重臣は小舟で米国艦へ、そして幕府海軍の船に乗り移り、という史料もある。
 本もの慶喜と影武者の動きは超シークレットのはず。現在、一般に言われている「貧しい姿でコソコソ逃げた」という脱出方法は、後世の御用学者の根拠のない創作と見なしたほうがよいだろう。
 知将は、痕跡をまったく残さず、さっと消えるものだ。そうそう目撃者などいるはずがない。

 この面では木戸孝允(桂小五郎)は、池田屋でも戦わず、禁門の変でも乞食にふんして京都を脱出し、出石(但馬)に240日間も逃亡した。わが身を守り、出番を待っているのだ。やがて時宜(じぎ)をみて下関に帰り、ここから幕末史が最も大きくうごいた。

 慶喜は大坂城を立ち去るにあたり、榎本武揚(たけあき)には海軍の軍艦をつかって、大坂城の財宝、18万両の御用金も持ち去らしている。

『武士は城を枕にせよ。敵に軍資金は渡すな』という幕臣たちに格言を与えている。
 かれら幕臣は、1月9日の早朝、和睦(わぼく)と称して新政府軍を大坂城に招き入れる、と同時に放火し、火薬庫、武器庫を爆破炎上させているのだ。絢爛(けんらん)豪華な大坂城は、2-3日間燃えつづけて、全焼である。

 こうなると、西郷隆盛は黒焦げた大坂城に入ったけれど、取り分はゼロである。

 鳥羽伏見で銃弾を使いまくり、大阪城は丸焼けである。……このさき慶喜追討、江戸城を攻めるにも、軍費は必要だ。兵士は宿泊費・現在ならば、一泊三食で1万円だ。

 さて、西郷は今後の戦費をどう都合つけるのだ。となると、経済学に弱い愚将・西郷となってしまう。かれの古い朱子学、陽明学では解決できない。資本主義的な財政・金融論が必要だ。

 当時の明治新政府の閣僚は、大名と公卿たちで構成されている。下級藩士の西郷めが、天皇を守るための、京都御所の警備用武器を無断使用したと言い、責務を問われる。(明日がどうなるか、誰も見えない混沌とした状況下だ)。強いバッシングを受けたことだろう。ちなみに、新政府の要人から、西郷は約1か月間ほど干されている。

「こんど江戸城は焼かせるなよ。ぜったいに。江戸城の金銀、財宝は外国に売り払って、奥羽越列藩31藩と戦争するのだ」
 それに失敗すれば、西郷隆盛の存在は消されてしまう。
 

 西郷は、戦えというよりも、戦うな、と言われるほど、苦悩する性格だろう。京都から悶々と軍隊を進めていく。
 彦根の井伊、尾張の徳川、静岡の各城主、箱根を超えて小田原城主、これらはすべて戦争回避をしておかなければ、江戸城は燃やされてしまう。
 一触即発で、かりに井伊家と戦争でもしたら、次々に、自焼(負け戦になれば、城を燃やして、敵に戦費を与えない作戦)されてしまう。ともかく、箱根の山は戦争せずに越えられた。


 慶喜はみずから江戸の上野寛永寺で謹慎に処した。なぜ、これができたのか。慶喜は外交に強くて、国際法を知っていた。
『敵の総大将(元首)は殺さない。かの有名なナポレオンでも、死刑にしなかった
 幕府はフランスと仲が良い。慶喜にはその知識ある。かれは外交に強い。欧米への働きかけから、イギリス・フランスは、『慶喜や大名は殺すな』と明治新政府に圧力をかけた。
 新政府軍は、慶喜に手出しができなかった。大名の殺戮もゼロである。

 この間に、小栗上野介が江戸城で、
「徳川家をつぶす気か。それでも将軍か」
 と慶喜の胸ぐらをつかんで抗議した。小栗は勘定奉行を4回もやり、財政・金融にも優れた、日本の近代化を推し進めた人物だ。なおかつ陸海の両奉行の経験がある。小栗には、駿河湾を利用した、打倒・新政府軍の戦略に勝算があったのだ。

 しかし、慶喜は戦争による国家の分断を嫌った。小栗を解雇し、片や、勝を登用し「江戸城を明け渡せ」と無血開城を指図したのだ。
 
 勝海舟は氷川清話で、「おれが江戸城を無血開城させた」と述べている。自慢したい気持ちはわかるが、幕臣の一人やふたりの知恵で、世の中が動かせるほど甘くない。
 自惚れ屋が妙なものを書き残すから、慶喜は腰抜け扱いにされてしまったのだ。

 つまり、知将とは戦わずして、事を治める人をいうのだ。 

 西郷隆盛はともかく至上命令で江戸城を焼かずに進軍できた。しかし、西郷と勝はふたりして江戸の治安維持に失敗している。もう、西郷はお払い箱に近い。
 
 新政府の木戸孝允は、知将の大村益次郎に期待した。大村は京都から江戸府に出てきた。怜悧に、江戸城内の金銀、財宝、すべてイギリス、フランス、オランダなどに売り払った。(現・国宝級文化財は一品も残っていない)。大村はこうして奥羽越戦争の軍費を作ったのである。

 上野の彰義隊にたいしても、最小限の費用の半日で決着をつけている。江戸の治安は早ばやと取り戻しているのだ。
 ただ、大村益次郎は、小栗上野介の陸海軍による駿河湾・待伏せ戦略がもし実行されていたならば、『自分(新政府)の首はなかった』と回顧している。

 慶応3年、小松帯刀が京都に不在だった2か月間で、西郷隆盛は鳥羽伏見で派手に戦争をやった。けれども、大阪城を炎上させてしまった。あとさきの必要戦費の計算も、みずから軍費の調達もできなかった。愚将である、という批判が怖かったのだろう。
 戊辰戦争が終わると、西郷隆盛はすごすご薩摩に直行し、帰っていった。
 
 最悪が西南戦争である。血気盛んな若者が、『われら薩摩が天下を狙い、蜂起する』と炎上した。それを止められる人物は唯一、西郷だった。しかしながら、逆に、それに乗ってしまい、大勢の将来ある鹿児島県の若者たちを死に至らしめた。
 
 幕末・明治の歴史は、薩長閥の御用学者によって編纂されたものが多い。鳥羽伏見の戦いは、西郷軍が最新の西洋銃を持って、幕府軍の旧式の軍隊に打ち勝った。
 15代慶喜将軍は、大阪城からこっそり逃げ帰った。そのようなバカげた史観で塗りつぶされている。

「戦争は金がないと戦えない」
 そうした財政・経済学の視点から、歴史をとらえると、名将から愚将にかわってくる。愚将が名将になる。
 ちなみに、日清戦争、日露戦争は、日銀が外国から金を借りまくって(外債発行)から、戦争を勃発している。もし外債の引き受け手がなければ、ロシア・バルチック艦隊が来ようが戦うことなどできないのだ。
 ただ、太平洋戦争のように、戦費の裏付けも満足にないのにパール・ハーバー(真珠湾)に奇襲攻撃をしたり、本土決戦だといい国家総動員令で、お寺の鐘、家庭の鉄をつぶして軍艦をつくり、木の飛行機と竹やりでB29と戦おうとしたりした愚将もいるけれど。 
 
 小松帯刀は明治3(1870)年7月20日に大坂で死去している。36歳だった。それから西郷隆盛は7年後、大久保利通は8年後まで生きている。
 このふたりが小松帯刀日記・慶応3年のありかを知っていないだろうか。むろん、これは推理小説的な推論である。ある意味で、歴史小説作家も、歴史学者も、仮設と推論で展開していくものだ。
 ここから掘り下げると、意外と実証の現物が見つかったりするケースもある。

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