A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【近代史革命・鳥羽伏見の戦い】西郷隆盛の苦悶=名将か、愚将か(中)

 西郷隆盛は、小御所会議の当日、御所警備だった。山内容堂が、この場に慶喜将軍がいないのはおかしい。年少の明治天皇をたぶらかせている、と強い批判をしてもめ始めた。
 参列した大名は、徳川を外すのはおかしい、と容堂に同調する空気だった。
 
 西郷は、下級公卿の岩倉に短刀で容堂を脅せよ、助言したのだ。つまり、土佐藩の容堂を殺してでも、会議をまとめろ、と強要したのだ。
 岩倉は前日まで、謹慎処分だった。かれによって王政復古のクーデター政権が誕生したのだ。


 西郷はかたやテロ活動をおこなっている。薩摩藩士の伊牟田尚平や益満休之助をつかい、江戸市中において騒擾(そうじょう)を起こさせているのだ。強盗、略奪、放火などで、江戸市民は恐怖におびえた。庶民の目で見ると、ひどいテロリストだ。
 かれらテロリストたちは、追われるといつも芝薩摩屋敷に逃げ込む。

 怒った小栗上野介(勘定奉行)が、庄内藩に薩摩屋敷を焼き討ちを命じたのだ。庄内藩はドイツから購入した最新銃や、大砲をもっている。大砲を撃ちこんだ。伊牟田や益満たちは、芝から品川の海岸へ。漁師の舟をかっぱらい薩摩艦に乗り込み、逃げていく。

 榎本武揚(たけあき)は最強の幕府海軍で、逃げる薩摩艦を大阪湾まで追っていき、撃沈させている。そして、大阪湾の制海権を握った。

 これより以前に、西宮・尾道に待機していた長州兵2500人が上京していた。

 会津藩が「討薩表」をもって明治天皇に、勅許を得るために京都にむかった。戦うためには天皇の勅許を必要としていたのだ。

 鳥羽・伏見街道で待ち伏せしていた西郷隆盛が、それら会津・旧幕府軍に襲いかからせたのだ。

 それに長州軍がすぐさま反応し、薩摩軍に加わっていく。ここで歴史上はじめて薩長連合軍が成立する。(薩長討幕というけれど、新政府ができた後だから、御用学者のねつ造である)

 やがて土佐と鳥取が薩長軍に加わる。かたや、芸州広島は反戦主義で外れている。
 約3日間で、旧幕府軍は破れて、大阪城へと敗走していった。

 わたしは鉄弾の実価格は知らない。仮に一発1000円だったとすれば、兵士が1分間に10発が撃てば、1万円である。仮に6500人いれば、1分間で6500万円である。10分間で、6億5000万円である。
 銃筒が熱くなるから、そうも連続して撃てないにしろ、1日分はもっと戦費が伸すだろう。戦争は引き金を引けば、金が飛び散る。
 大砲の弾などは一発10万円以上とおもう。100発も撃てば、たちまち1000万円である。

 鳥羽伏見の戦費の資料は見つからないので、正確な数字はわからない。3日間の戦いで、おそらく100万両(80億円)くらいだろうか。

 小松帯刀がやがて慶応4年1月18日に、京都にやってきた。鳥羽伏見の戦いの経緯を知るだろう。
「御手洗から6500人の兵は、最新銃と弾薬をもって上京してきた、その背景を考えろ。この軍隊は京都御所の護衛と京都の治安目的だ。西郷は、武器使用の目的をはき違えている。
 つかった西洋銃の弾丸は、輸入するまで、かなり時間がかかるのだ。この先、京都御所の警備に不都合が生じるだろう。旧幕府軍が、急きょ、体制を立て直して、挑んできたら、どうするのだ」
 と怒るだろう。

 木戸孝允は小松よりも3日後の1月21日に京都にやってきた。木戸は西郷嫌いで、討幕の方向だ。
 木戸はかつて江戸三大道場の一つ、斉藤弥九郎道場の塾頭だった。池田屋事件、禁門の変、第2次長州征討、と危険をかいくぐってきた人物で、肝っ玉は据わっている。
 前年1月の京都・小松邸で、俗にいう薩長同盟の場で、木戸はいきなり西郷隆盛を罵倒している。(岩国藩の資料による)。

「戦争は、見返りの勝利品があって成功といえるのだ。鳥羽伏見で、弾を消耗しただけじゃないか。この先の戦費は、いったい、どこで作る気だ。戦争は無料(ただ)でできないんだ。新政府は大阪商人から金を借りるほど信用ができていないだろう。徳川家500万石はまだ健在なんだ」
 と噛みついただろう。

 戦争は力技だけ名将といえない。
 徳川慶喜は孫子・呉氏の兵法から、ここらをしっかり計算している知将だ。勝利品は西郷たちに渡していない。

 後世の御用学者は勝者側に立って、慶喜が江戸に逃げ帰ったという。決して、弱くて逃げたのではない。

           【つづく】


 写真:雑誌「太陽コレクション」(平凡社・昭和53年5月発行)の「かわら版・新聞Ⅱ」

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