天草・島原の乱と、その後の幕府直轄領の善政を知る
江戸時代の天草といえば、「天草・島原の乱」(1637) 、そして「隠れキリシタン」が有名である。あまりにも、有名な事象があると、それ一色に染まり、他の有益な史実が陰に隠れたり、研究者が不在で、歴史的な重要な事実が消されたりするものだ。
2016年6月21日に、熊本から遠距離バスで天草を訪ねた。松岡さん(目黒学園カルチャーの受講生)がセッティングしてくれたので、本多康二さん (天草市観光文化部文化課 管理係長)と歴史的な意見交換ができた。
本多さんは古代史が専門である。天草には恐竜が存在していた。その肉片が出てきたので、世界的にも珍しいものだと、説明してくれた。私はひたすら聞き役で、古代ロマンのひとときを過ごした。
天草・島原の乱が終結した後に、天草は幕府直轄領になった。「2度と天草・島原の大乱」をおこすな、という趣旨で、江戸勘定奉行所から、特別な優秀な人材が送り込まれたはずですが、と本多さんに質問をむけてみた。
というのは、私が『燃える山脈』で、飛騨高山を取材したときに、ひとつの特徴をつかんだからである。飛騨国では18年にわたる大原騒動が起きた。当時の大原(代官、後には郡代)は、一般にいう悪代官の典型だった。
それが終結後から、勘定奉行所から派遣される官吏(現代の大蔵官僚)は、みな有能だった。大井帯刀郡代、小野朝右衛門(山岡鉄舟の父)など、農民の立場を斟酌(しんしゃく)し、農民に目をむけた施政ができる人材である。
天草・島原の乱が農民一揆だとすれば、幕府はきっと有能な人材を送り込み、二度と大乱を起こさせない前向きな施策を取ったはずである。
「たしかに、そうです。初代代官に任じられたのが鈴木重成(しげなり・京都代官)です。寛永18(1641)年。かれは荒廃した天草の復興に尽力し、現在も「鈴木さま」と慕われています」と本多さん
「どのような施策ですか」
私は質問してみた。
天草・島原の乱前の天草は、唐津藩・寺沢家の支配下にあった。悲惨で過酷だった。秋の刈り入れの米が全部年貢にとられてしまう。これでは農民が生きていけない。年貢滞納者には両手を縛って蓑(みの)を着せ、火をつけて生きたまま殺す。「蓑踊り」などの惨刑を科していた。
それら苛政が天草・島原の乱となった。
幕府軍の鎮圧で、農民たち3万7千人が殺された。天草では人口が2万人から約8千人にまで激減したと推定されている。働ける農民が少なくなった。
初代の鈴木重成代官は、他からの移民を推しすすめる。
片や、天草領地の検地を実施した。実高が2万1千石なのに、4万2千石になっている、と判明した。税率は石高に応じて4割から6割である。石高(収穫)が2倍だから、収穫期に全部、年貢にもっていかれてしまう。この重税が天草の人々を苦しめ、「天草・島原の乱」の元凶だったと言い、鈴木代官は「石高半減」を幕府に嘆願した。
しかし、唐津藩領から徳川幕府直轄領になり、とたんに石高を減らす(年貢の減となる)のは前例がないと、幕閣は聞き入れなかった。
鈴木代官は江戸でくりかえし抗議し、書面を残し切腹して果てたのだ。
旗本が農民のために切腹まで為した。幕府はおどろいた。他方で、天草の人々は、鈴木重成代官の死が伝わると、みんなして号泣したという。
重成は老中・松平信綱の信任が篤(あつ)かった。本来ならば、切腹した場合にはお家断絶だが、病死扱いにし、養子の重辰(しげとき)(正三の実子)を天草の2代目代官にすえた。
重辰は同様に繰り返し天草の石高半減を訴えて、それに成功している。そこから天草の人々は平穏な生活にもどった。天草は幕府直轄領として、江戸の色彩が強くなっていく。
一般の認識では、天草・島原の乱は、『キリシタンの反乱(宗教戦争)』と捉えられている。否定はできないけれど、主要な要因は島原藩主・松倉勝家の苛酷な年貢搾取だった。過酷な支配に対する農民一揆である。
江戸幕府は島原の乱をもって、その後のキリシタン弾圧の口実に利用した。
(天草四朗たちが立ち上がった、本渡城~富岡城への海岸線を走る)
悪い奴、政治をかく乱した奴、戦争を起こした奴は歴史に名を残す。民を犠牲にするほど、英雄になる。片や、善政・善人はいつしか歴史から消えていく。
現地取材すると、歴史認識が変わる。「鈴木さま」と崇められる人物を発見できたように、消えた人物の掘り起しにもなる、と私は再認識させられた。
極貧の庶民・農民の立場になり、いのちを投げ出した鈴木さまの、善政には感動させられたし、聞くほどに胸を打たれてしまう。『燃える山脈』の飛騨国・大井郡代と重なり合うものがあった。