江戸の飲料水は井戸にあらず。江戸城のお堀の水はどこから?
江戸城のお堀の水はどこからきているのか。さらには、100万人の住む世界最大級の人口の水は、どのように供給されているのか。単純な質問を私自身にむけてみても、明確な答えは出てこない。
「東京水道の歴史紹介~江戸から東京へ~」、(東京区政会館1階エントランスホール:28年7月12日から8月4日)と、さらに東京都水道博物館に出むいてみた。
江戸からの歴史を知れば、人間の英知を知ることができる。一方で、ふしぎな疑問も生じてくる。すぐには解明できない。それが歴史の面白さだろう。
徳川家康が江戸幕府を開いたときから、人口は膨張している。関東ローム層だから、井戸を掘っても、さして水は出てこない。そこで、神田上水や、玉川上水がつくられた。
玉川上水は、奥多摩・羽村の堰(せき・堤防)から延々と水を引いてくる。
基本的な考えは、現在の水道管と同様に、木樋(もくひ)や石樋を地下に埋め込み、上水を引いているのだ。
神田上水が、お茶の水の神田川の上を架けて給水されていく。
懸樋(かけひ)の技術は、ただ感心するばかりだ。
参勤交代で江戸にきた大名や家臣、大工、商人、諸々の住民は水がなければ、1日も生きていけない。
武家屋敷、長屋ごとに、大きな円筒の桶(井戸代わり・写真の桶)が造られている。それを汲み上げている。
江戸全域を考えると、それを網羅(もうら)する、とてつもないぼう大な工事だ。徳川幕府の豊富な資金力が容易に想像できる。
ちなみに、江戸幕府は身分に応じて大名、旗本、御家人に屋敷、家屋を貸与(拝領居屋敷・上屋敷)していた。ご公儀に盾突くと、「お家とり潰し」で、江戸の住いを幕府に明け渡さねばならない。むろん、国許のお城も、武家屋敷も。
こういう目線で、武家諸法度をみると、士農工商といえども、武士たちはつねに「路頭に迷うわが身」を案じて、幕府の大目付、目付たちの監視に脅えていたのだ。
狂気の殿様でもいれば、座敷牢に入れて口塞ぎをした。領内の悪いウワサにも、かれらは敏感に反応し、幕府の目を怖れていた。、
2階は江戸時代。1階が「近現代の水道」である。私たちはふだん水道の蛇口しか見ていない。ダムのみならず、巨大な水道施設をみるほどに、水のありがたみがわかる。
夏休みに入れば、親子連れなどがたくさん勉強にくるだろう。
江戸城のお堀の水はどこからきているのか。それは東京区政会館1階のパネル展、東京都水道博物館で、回答が出なかった。
お城は極秘で作られる要素がつよい。多摩川、神田川から木樋で引いてきたのか。まてよ。現代も、お堀の水はある。
かつて西新宿の淀橋浄水場から、1日2万トンの水がお堀に流れ込んでいた。この浄水場は1965年に廃止されて、雨水だけだという報道もある。これには疑問がある。
雨水だけが頼りならば、極度の渇水期が到来すれば、お堀は枯れるはずだ。八木沢ダム、小河内ダムなど、底をみせる年もある。
ネットで調べると、徒歩で調べた方がいる。神田川から、日本橋を通ってたどり着いたようだ。ただ、お堀の手前で、地下に潜ったようで、目視はできていない。
これも歴史ミステリーなのか。
