A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

「作られた歴史」 阿部正弘は偉人か、無能な老中か(2)

 東インド艦隊司令官のビッドル提督と浦賀奉行所の与力が、アメリカの軍艦の船上で交渉している。それは老中首座の阿部正弘(福山藩主)の指示で行われていた。

 ビッドル提督は、中国(清)と条約批准書の交換の帰路に立ち寄ったと日本側に説明した。老中の阿部正弘は「日本は開国・通商の意志がない」と浦賀奉行所を介して、英文の論書で言い渡した。
 ビッドル提督は「了解した」と紳士的な態度だった。

 幕府はビッドル提督に、薪の松5000本、水2000トン、卵3000個、小麦2俵、大根、ナス、ニンジンなど生鮮食品を大量に贈っている。この間に、日本人が多数、米艦に乗船している。ビッドル提督が率先して軍艦の船内を案内している。スケッチすら許可している。双方の敵対関係は皆無だ。

 それら交渉内容がビッドル提督によってアメリカ政府に持ち帰られた。米大統領はあらためてオランダを介して、ペリー提督に親書をもたせるから、と日本側に伝えているのだ。

 ペリー提督が蒸気船で来て、浦賀には物見の人が一杯になった。ビッドル提督は帆船だったが、蒸気船はめずらしい。

『泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず』という狂歌が詠まれた。詠んだ当人は、自分も浦賀に行きたい、夜も眠れぬほどに興奮している、と解釈すべきだろう。

 ところが明治政府は悪用し、江戸幕府がおたおたして何もできなかった、と教科書でもそう解釈させている。
「黒船来航の無能な幕府に対して、尊皇攘夷がはじまった」
 ペリー来航が歴史の基点にしている。
『ビッドル提督の米軍艦は初の日本寄港だった』
 それを教えないのは、卑怯(ひきょう)だと思った。
 ビッドル提督から教えると、幕府が米国事情を知り尽くしていた、となってしまう。ビッドル提督はあらゆる米国事情を語っているのだから、ベリー提督に驚くはずがない。むろん幕府は冷静な対応している。一年後に、回答するからと言い、まずは引き取ってもらったのだ。
 阿部正弘はあらゆる意見を求めた。徳川将軍の独断で、決めることではないと判断したからだ。
 

 ビッドル提督の来航から、日本史の教科書で幕末史を教えてくれていたならば、ペリー提督来航の狂歌など、単なるブラック・ユーモアだとかんたんに理解できた。
 国民の目を欺く作為は、教育から入るのが手っ取り早い。無能な老中などあり得ないのに、狂言をもって歴史的な事実だ、と学生を信じ込ませた。教育は怖い。

 明治政府が教科書をつくったころ、日本に帝国大学はできておらず、さして独自研究者や楯突く者もおらず、官吏の思いのままに教科書ができたのだ。

                                      【つづく】

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