A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

歴史的な写真発掘 高間省三と最新式短銃=龍馬すらも写していない

 私は、ここ5年ほど前から、幕末の芸州(広島)藩の役割と再評価への取材を続けてきた。2011年にはフクシマ原発事故が起きた。それから2年経った今年、広島藩の戊辰戦争に目をむけた。

 興味深い人物が浮上した。鉄砲奉行の長男の高間省三である。秀才中の秀才が、農兵(神機隊)に飛び込み、出兵している。福島・浜通りの浪江の戦いで、一番乗りしたが、顔面に銃弾を浴びて死んだ。

 取材内容の一部は、穂高健一ワールド【フクシマ取材ノート】に掲載もしている

 20歳で戦死した若き砲隊長・高間省三の取材では、双葉郡の各教育委員会(4町村)の学芸員、さらには広島・鳥取の戊辰戦争研究者の方々も協力してくれている。

 別途、高間省三の子孫がわかり、川崎康次さんからは貴重な史料が貸与してくださった。脱筆までの条件で。ここには貴重な高間省三の写真が含まれている。


 1868(慶応4)年、広島・御手洗港から「神機隊」は戊辰戦争へと、芸州藩船で出港し、大阪で一度上陸している。高間省三が大阪の写真師の下で、写真を撮ったのである。
 撮影後、省三は父親(鉄砲奉行)に手紙を添え、この写真を送っている。(死の5か月前)。

 坂本龍馬も長崎で写真を写している。だが、短銃を持った写真はなく、突っ立っている姿だ。高間省三の写真は武装した姿だけに、戊辰戦争の戦力の違いなど、多く読み取れるものがある。幕末史の研究者たちにも、広く役立つ写真なので、あえてこのHPで掲載した。

         【写真コピーは厳禁いたします】      

 写真から官軍と奥羽列藩の戦力の違いを列記してみると、


① 奥州列藩は会津、仙台にしろ、火縄銃だった。官軍はライフル銃だけでなく、隊長クラスは高間省三の写真から、最新式の短銃を持って戦場に臨んでいた。奥州側は雨が降れば火縄銃が使えない。一方で、官軍は雨でも川のなかでも戦える。むしろ、それを形勢逆転に利用していた。


② 高間省三は懐中時計を持っている。時々刻々と、戦況が移りゆく展開で、時分単位で兵士に指示を出る。
 当時は丑三つ時とか、寺の鐘とかで、刻限が曖昧である。官軍は兵士の参集とか、攻撃時間とか、正確な時間で号令が出せていたことを意味する。
 少なくとも、隊長クラスが時計を持っていれば、正確な時間で攻撃タイムを決めることができるのだ。


③ 革靴を履いている。現在と違って、舗道などどこにもない。わらじは一日に数足必要(雨ならなおさら)で、補給するのにも大変だ。
 官軍側は革靴で、隘路でも、山道でも、足元がしっかりした、スピーディーな攻撃ができた。 


④ 名宝の日本刀は、敵陣内に入り込んだ接近戦では貴重である。高間は抜刀の戦いも数多く記されている。接近戦で銃を使うと、見方を射殺する事故になりかねない。


⑤「鎧兜は重くなるから、持ってくるな」と官軍は指示を出している。現在でいう洋装で身軽だ。奥州側は、会津藩などは武家の甲冑姿で、弓と槍を持ってくるものも多かった。行動力がまったく違う。

 まさに一枚の写真から、西軍と東軍の力の差がはっきり読み取れる、高間省三の貴重な史料である。

         写真提供:川崎康次さん(広島護国神社蔵)から貸与。

         写真使用の場合は【広島護国神社蔵】と明記してください。 

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