A038-元気100教室 エッセイ・オピニオン

桜吹雪   青山 貴文

 空に向かって、大木の欅やクヌギあるいはユリの木などが、十数メートル間隔で通路に沿って茂っている。多くの萌黄色の新芽をつけた細い枝が四方に生き生きと伸び広がる。それらの新緑の若芽と織りなすように桜花が咲き誇っている。一陣の風に、数枚の桜の花びらが、陽光に照らされて舞い降りる。

花吹雪.png ここ数日、私はこの自然の樹木が演じる新鮮な春の景観に目を奪われる。方々に顔面を上げ放して、さくら運動公園の弾力性のある歩行通路を踏みしめて歩く。一般道路と違って、自動車などが来ないので、前方を注意することもない。ただ、新緑と桜花の供宴に酔いしれる自分がいる。数日のうちにこのレンガ色の歩行通路は白色の桜の花で敷き詰められていくのであろう。

 いつものカップルが、陽光に輝いて舞い散る桜吹雪の中で、車椅子を伴って歩いている。車いすを動かしている人は、70歳くらいの頑健そうな男性だ。登山か何かスポーツで右脚を骨折し黒色ギブスで固定されているようだ。太い筋肉質の両腕で力強くハンドリムを動かしている。
奥さんらしい同年配の女性は、白い帽子をかぶりスニーカーを履いて、その車椅子を前後して歩く。手押しハンドを押すこともなく連れ添って桜吹雪を楽しんでいる。毎日、ご主人と車椅子を乗用車で公園に運んでおられるようだ。毎日欠かさず補佐する奥様も大変な忍耐力をされていると思う。

 この数か月前から、彼らは車いすで歩行通路にやってきて一周(1キロ)して帰って行く。私が彼らに遇う時は、後ろから追いつき、ゆっくり追い越していくので、どういう顔付きをしているか知らない。すれ違う時の横顔や雰囲気から察するに、静かにお互いを信頼しあっている感じが伝わってくる。多分、あと数か月もすれば、ご主人の右足も完治されるのであろう。この通路は、ハンデのある人たちの心を癒し躰の回復を促す場でもあるようだ。
 私は、7年前ころからほぼ毎日この歩行通路を、3から5周を歩いている。おかげで、そのころ発症した左大腿部の痺れを完治することができた。

 さらに、4年前、ダンス教室の練習で相手の女性の足を踏みそうになり、二人して一緒に床の上に転がってしまった。相手は無傷であったが、私は左脚の脹脛(ふくらはぎ)を捻り、内出血を起こし、黒く変色しパンパンに膨れた。  
 翌日から、その左脚を引きずりながら、超スローでこの通路を歩いた。日々、徐々に歩く距離を伸ばしていって、三週間くらいで完治した経緯がある。その時も、この樹木で囲まれた歩行通路が私の心身の鍛錬にすごく役立った。

 古い話になるが、今から20数年年前、私は60歳で定年退職をした。脳梗塞で半身不随になった当時80歳の母を看病するのが私の主な仕事であった。彼女は介護4で、ひとりで立つこともできなかった。だが動かない方の左手を持って支えてやると立つことができた。薬の適量投薬の効果もあり、歩行訓練で伝え歩きができるようになってきた。
 当時、私はさくら運動公園の存在を知らなかった。半身不随の母の運動のために、というよりも看護という日々の単調さを解消するために、母と折り畳み車いすを乗用車に載せて戸外に出かけた。

 自宅から車で十五分くらいに位置する深谷市の仙元山公園にもよく立ち寄った。この公園は、周囲にプールや遊技場があり、児童の遊ぶ姿が観覧できた。また、仙元山の頂上からは、近くに扇状に広がる田畑が見渡せ、新幹線が走るのが見えた。さらに、北北西遠方には赤城山や榛名山が望まれた。
 仙元山は、小高い二つの丘からなっていて、桜の木が所々に植わっていた。母は少し認知症気味で動作が緩慢であったが、小柄で軽量であった。私は母を車椅子に載せ、一方の小高い丘の頂上に連れて行った。

 春の午後の陽が一本の大きな桜の木に降り注ぎ、花吹雪が舞っていた。その桜吹雪の真下に、車椅子を止めた。
色白の母の顔が、さくら色にほんのり染まり、幼児のように右手を伸ばして桜の花びらを掴もうとしていた。そのころは、スマホもなかった。無心に桜吹雪と戯れる母の姿を写真に撮ることもなかった。
 彼女の半生は、苦労の連続であった。やっと息子のいる熊谷で平穏を得られ、これからという時になって風邪をひき入院する。そして、翌日脳梗塞を再発し、84歳の生涯を閉じた。
 記憶力の著しく乏しくなった私であるが、桜の花弁を右手でつかみ、嬉しそうにしている母の顔が、いまだに脳裏に鮮明に残っている。

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