A038-元気100教室 エッセイ・オピニオン

浮遊体験 桑田 冨三子

(あ、浮遊した!)
 とっさに私はそう思った。もんどりうって空中に放り出された瞬間に、である。
それは本当に不思議な気分だった。体が宙に浮いた。海で浮くのとは違う。ブランコで空中高く揚がるのとも異なる。自分の重さがない。

 そんなことってあるのだろうか?

 お尻から、ドサンッとひどい落ちかたをした筈なのにどこも痛くない。マンションのフロアに見事に仰向けになった私は、周りに誰も居ないのを確かめ起きあがろうとする。マンションの玄関はただ広く何も掴る物はない。濡れてツルツルするだけの中を、もがき泳ぎ、手をつき、膝をついて、なんとか立ち上がった。

(あア、助かったんだ!)
 と、はじめて我に返った。
 体が痛いはずなのに、その時私はなんと、「空中浮遊」を経験したと喜んでいた。

 昨年の暮、「新しい年の夢は何」との問に「空を飛んでみたい、飛行機ではなく風を感じながら空中を!」と私は答えている。
 その時は(富良野のトマムあたりで空中パラグライダーの挑戦)を考えていたのに、思わぬところで、思いがけなくい空中浮遊を体験したことになる。

 新年明けて1月6日、その日の東京は、めったにない大雪が降り積もっていた。

 夕方、出してない人からの年賀はがきが7枚届いていた。
(返事をすぐ出す。さもないと、冨三子は居なくなった、と思われる。今、出せば明日届く。)

 そう思った私は雪途を躊躇することなく出かけて行った。途中で見かけた金髪の可愛い女の子が雪だるまを作っていた。胡瓜のヘタの眼は青い。赤い人参が大きな鼻である。

(なるほどね、この外人雪だるまは大賞ものだ。)

2022.3.22.002.jpg 道中、私はゆっくりと注意深く、慎重に小刻みに歩いた。(無事に帰り着いた。)とほっとしてマンションに入ったその時、私は滑った。身体は、まっすぐ平行に、脚が円を描くように跳ね上がった。

 その瞬間、私は空中浮揚した、と感じたのである。
「大雪の日の夕方なのに、なんでポストまで出かける必要があったの?」
話すたびに、みんなから叱られた。
 整形外科に行った。
「頭と大腿骨は何ともないです。腰椎が4本と、尾てい骨が折れてます。」
(お正月早々ばかなことをやったもんだ)。私は反省した。しかし本音はチョット嬉しい。
「その瞬間に空中浮遊したと感じました。」
 とリハビリの先生に言ったら、
「それは、あなたが転んだ瞬間に(大事にならないように)と必死に願ったからですよ。あなたの命が助かるように、あなたの脳みそが、普段の能力を超えた力を出させたのです。」「えエ、脳みそが私を助けた?いったいそれはどういうことですか?」
「本当ですよ。そういうことは、実際に起き得ることなのです。」
そこで理学療法士の先生はなにやら「心理学のフロー」とかの説明をしてくれた。


 もともと人間には、その人が本来持っている能力(生理的限界)を抑制することによって、その人の筋肉や骨の損傷を防げるように、安全装置がかけられているのです。
 脳がそれを意識的にコントロールします。そのため,何も危険のない通常時には、その人がどんなに力を出して頑張っても、自分の意識の中で限界だと思っているところまでしか(心理的限界という)力を発揮できないのです。

 しかし、ひとたび非常な危険が迫ったり精神的に追い詰められたりした時には、この安全装置が外れて、その人本来に備わっている能力が100%(生理的限界)まで発揮されます。骨や筋肉の損傷を防ぐために脳が働いて、その人が通常時には出せない、とんでもない大きな力が出るのです。ハンマー投げや重量挙げの選手が大会本番に思いがけない自己ベスト記録を出した話など聞いたことがあるでしょう。あれです。いわゆる{火事場の馬鹿力}と言われる現象です。

「あなたは、転んだ瞬間に(大事にならないように)と必死に思ったからです。あなたの命が助かるようにあなたの脳みそが普段の能力を超えた力を出させたのです。」
 先生は同じことをもう一度、繰り返して行ってくれた。この説明を聴いて、あっけにとられて私は、ただ、人体の超自然的な神秘に感動し、感謝するより他のすべはなかった。
とても不思議な体験だった。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

                               了

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