A038-元気100教室 エッセイ・オピニオン

私の散策メニュー 桑田 冨三子

 普段は、あまり考えもしなかったことだが、これといった目的もなしに近所を歩きまわるようになった。家にじっとしているのは健康的でないといわれたからである。
 まず気が付いたのは、ここら辺はとても坂が多い。台地と谷地が入り組んだ複雑な地形である。家を出て通りへ抜けると、そこは「木下坂」である。坂の片側は、ずっと、緑深い有栖川宮記念公園に面している。公園に沿って、低めの白い塀が造る緩やかなカーブと、なだらかな勾配は、歩くものにとってこよなく優しい。



 登り切ったところは交差点で、角には「盛岡町・交番」がある。昔、有栖川公園に盛岡藩・南部家の屋敷があったとかで、そんな名前になっていると聞いた。

 交差点を左に行くと、「北条坂」である。けっこう嶮しい下り坂で「鉄砲坂」とも呼ばれる。坂の途中、左側には以前、辻井 喬(つじい たかし)と名乗った詩人・小説家の屋敷があった。セゾングループを築いた実業家、西武デパートの堤 清二さんである。
 いつも開いている門の向こうに見えるのは、赤く咲き誇るバラ、ピンクの小さいバラ、輝くような白いバラなど、眺めてあきない豪華な薔薇の饗宴が、坂道を通る人の目をひいていた。それが時代が移った今では、ぜんぜん関係のなさそうな人が住む大きなマンションに変容している。


 盛岡町交番を右へ曲がるとテニスコートがある。野球場があって、仙台坂の上に出る。一方通行の出口だが、左に曲がると下り坂、そこは「暗闇坂」(くらやみざか)である。
 なんで、暗闇坂なんていう気味の悪い名前にしたんだろうか。由来は、昼間でも暗いほど鬱蒼と樹木が生茂って、狭い坂道に覆いかぶさっていたからだという。

 そういえば、夜など遅くなって地下鉄・麻布十番駅からタクシーで帰るときなど、この坂を登り通ることになる。怖い。明治のころの「人切り以蔵」の名が浮かんできたりする。確か、坂の途中、左側にオーストリー大使館があるはず。けれども真っ暗で人の気配はまったくしない。小さい灯りがぼんやり、ポツンと見えるだけ。

(運転手さん、お願い。スピード出して速く通り抜けて。)

 話を仙台坂上に戻す。仙台坂をまっすぐ下ると、途中、左側にまことに面白い形の高層マンションが見えてくる。頭デッカチで下は細く、まるで伸び過ぎた、つくしんぼうの態だ。有名なカルロス・ゴーンさんが住んでいたらしい。彼はそこから近くのホテルまで歩いて行った。そこには二人のアメリカ人が待っていて、品川駅から関西空港へと首尾よく日本を出国して行った、のだという。

 ここで、ゴーンさんの名誉のためにあえて言っておきたい。
「世界の子供たちに良い絵本を届ける活動」をする私たち(IBBY)にとって、彼は多大な寄付支援をしてくれた慈愛深いところもある素敵な人だったことを。


 最後にもうひとつ、私の散歩メニューの中には、秘かに大事な坂がある。

 家を出るとすぐレンガ色の私道になる。坂の名前はまだない。バブルが崩壊する寸前、いくつかの木造家屋の取り壊しが続いた。そして住んでいた人々が皆、いなくなった。その後、登場してきたのが、このレンガ色の坂道である。

 この坂をおりていくと、大きな鳥が居る邸宅に突き当る。鳥はものすごく大きい。羽を広げると2メートル位にはなるだろう。鳥籠なんていうものではとても間に合わない。家にはドーム型の屋根が造られている。
 バルコニー風のテーブルのある庭園があって、そこには木や植物が沢山生えている。なんとなく薄暗い。まわりは塀のように高くぐるりと、しっかりした金網が張り巡らされて、その網はドームの屋根にまで届いている。空は閉じられている。
 そこに大きな鳥が棲んでいるのだ。

 以前は、この家のガレージから出てくる白い乗用車の後部座席に、いつも豹が乗っていた。生きている豹である。しかし、だいぶ前から豹の姿を見かけなくなった。

(きっと豹がいなくなったから、今度は、鷲にしたのだろう。)

 私はそう思って居た。
「いやア、あれは鷲なんかじゃないよ。トンビだ。トンビに違いない。それにしても金色のトンビなんて、とっても珍しい。」
 一緒に鳥に会った人が教えてくれた。だからきっとトンビなのだろう。

 私は外へ出る時はいつもその鳥が居るかどうか、とても気にしている。金網越しに鳥がこちらを向いている時には、ホットする。
(ああ、よかった、元気なんだ。)
 しかしこの頃、鳥は姿を見せない日が多くなった。そんな日は、とても心配になる。
(きっと年寄りなんだ。)
 なるべく長く生きてほしい。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

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