A038-元気100教室 エッセイ・オピニオン

わすれられない   吉田 年男

 写真の整理していた時だ。姉と二人で写っているキャビネ版の写真が出てきた。セピア色の古ぼけたものだ。姉は三人いたが写真は一番下の姉で、私とは七歳離れている。

 姉たちから、私が小学生のころ怪我をすることが多くて、母が育てるのに戸惑っていたと聞かされていた。写真の姉は歳が一番近いせいもあってよく面倒を見てもらった。

 写真を見ていたら、指先の出血で大泣きをして母を困らせたときのことを思い出した。


 終戦の年に、疎開先の茨城で小学一年生であった私は、二年生のときに、東京の小学校に転校した。
 転校先の杉並区立和田小学校は、戦争で校舎の大部分が焼かれていた。和田小の生徒たちは、同じ区内の方南町駅に近い、大宮小学校の校舎を借りていた。大宮小まで歩いて通った。子供の足ではかなり遠く感じたことを覚えている。

 東京での生活は、戦後間もないころで特に食糧事情が悪くて大変だったと思う。小学生だったわたしは、そんな時代であっても、さほどひもじい思いをしないで過ごせたのは、母や姉たちのおかげだと感謝している。

 焼け跡が区内のあちこちにあった。印象に残っているのは、銭湯の焼け跡で、白いタイルや洗い場のカランがそのまま残っていた。
 そこはほかの焼け跡より広くて、三角ベースなど野球をする子供たちの恰好な遊び場だった。
 当時、米国からシールス軍が来日して、日米野球を見に後楽園球場へ姉に連れて行ってもらった。遊びの中心は野球であった。善福寺川での水遊び、ケンダマ、メンコ、ビー玉、縁台将棋など、暗くなって周りが見えなくなるまで家には戻ることはなかった。

 
 ある時、路地の暗がりで友達とメンコに夢中になっていた。丸メン(ボール紙の厚手の丸いメンコ)を持った右手を強く振り下ろした。地面に指先が当たった。
「痛い」と思ったとき、中指の爪の間に土が少し入り込んでいた。
 その時は友達には何でもないふりをしていた。夜になって痛みはだんだんひどくなってきた。ほったらかしにしていたら、数日後には中指の太さが、倍ほどに膨れ上がっていた。あまりの指の変貌と痛さに、母に頼るしかなかった。一部始終を話した。母は慌てて、近くの診療所へ連れてくれた。

 診療所は、狭くて薄暗かった。先生が軍医だったことも知らなかった。
 当時はそういう診療所しかなかったのかもしれない。先生に「手を洗ってこい」といわれた。痛みをこらえながら、腫れあがった手を洗った。そして、何をされるのかわからず、恐る恐る洗った手を先生の前に出した。

 先生は、何も言わずにいきなり指先をハサミのようなもので切った。そして、膿を絞り出すように強く握った。周りに膿が飛び散った。先生の白衣に赤黒い膿がべっとりと付いている。指さきのきり口にきいろい薬のついたガーゼを詰め込んだ。ひどい荒業治療は終わった。

 しばらくは驚きの放心状態。強烈な痛みは母と一緒に診療所をでて、しばらくしてからおそってきた。
 麻酔もしないで指先を切られたので、痛みは半端ではなかった。たまらず地面に座ったまま大泣きをしてしまった。
 母の前で大泣きをしたのは、後にも先のもこの時だけだと思う。母も姉たちも、今はもういない。
 あの時の困りはてた母の顔は、何年たっても忘れることができない。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

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