元気100教室 エッセイ・オピニオン

利庵(としあん) 石川 通敬

 夕方目黒駅からバスで白金のオルガニック鶏料理店に妻と出かけた。そこはテニス仲間が経営している店で、一度は顔を出したいと思っていた。
 ところが中に入ると、
「石川さん申し訳ないけど今日は予約で満席です」
 とすまながる。妻に、
「どうしようか」と聞くと、
「いつも行く目黒のおそば屋さんに行きましょう」

 店の前はバス停だ。しかし時刻表を見ると、運悪く三十分近く待たねばならない。仕方なく目黒駅に歩いて戻ることにした。
 しばらくすると、ふと思いだしたのが、プラチナ通りにある「利庵」という店だ。その通りは外苑西通りの一部だが、都内屈指の美しいイチョウ並木になっている。今の季節は真黄色の紅葉が楽しめ、歩道には銀杏が転がっている。樹が大きいため、街路灯があるにもかかわらず歩道はうす暗い。


「利庵」は昭和六十年の創業だ。建物は、木造の昭和時代様式の古民家風だ。開業直後からそばの美味しい店として人気化し、いつも行列が絶えなかった。
 我が家も、早い時期から家族でよく利用していた。しかし江戸時代風をよしと考えていたのだろう、夕方五時近くになると、ぶっきらぼうに「閉店です」と客を追い出す。それが面白くなく、私はいつしか利用しなくなっていた。

「閉店時間が早かったと思う。もう七時だから無理かもしれないよ」
 と私が言うと、妻は
「味は間違いなくいいと思うわ。それに時代の変化もあり五時に閉めることはないかもしれないから、急いでゆきましょう。まだ七時過ぎよ」
 と小走りに歩き出す。

 しばらくすると、薄暗い歩道の遠方に、ボーっと電球の明かりがあり、目を凝らすと、その下に人影らしいものが見えてきた。
 まだ間に合うだろうと、思わず二人で駆けだした。着くと三人の女性が、入り口の外で並んでいる。我々を見ると、その中の年長らしい人が話しかけてきた。
「閉店は七時半です。私達が入れる最終の客だろうと店の人は言ってます。でもまだ十五分あるので、お店にお願いしてみたらどうでしょう」
 と親切に教えてくれる。そんな言葉に勇気づけられ、希望もって待つこと十分。

「テーブルの関係で、お二人を先にご案内します」
 と担当女性が現れた。アドバイスをしてくれた三人の女性に、
「順番が逆になり恐縮です。」
 と心よりお礼を言って席に着いた。

 店内は、驚いたことに、雰囲気が依然と比べ、ガラッと変わっていた。
 家具が古民家風になっている。品ぞろえも、小さな高級小料理屋以上で、店内の壁には所狭しと、お勧めの品々が紙に書かれ張ってある。手元には多くの料理名が書かれたお品書きが置いてある。
 もう一つ感心したのは、料理、酒、そばを前に、楽し気に談笑する客の様まだ。隣には、入り口で待っている時から見えていた若い夫婦が座っている。若い男性は升酒を、ずっと何杯も気持ちよさそうにお代わりしている。
 その飲み姿を羨ましく見ていたが、彼はいつしか升をもったまま首をたれ寝始めたのだ。奥さんは心配して、おろおろしている。私も大丈夫かと思っていた。

 その矢先、突然元気な中年の男性が現れ、若い男を後ろから抱き抱え、店員に氷をビニールの袋に入れて持ってこさせた。そして、それを首筋の上、後頭部に当てたのだ。それでも若い男は、目覚めない。すると今度は両脚の間に手を入れ、組んでいる足をほぐしたのだ。

 その作業を見ながら、私は二人の食べ残しのままになっている天丼を見て、
「もったいないから、持ち帰りをお店に頼んだらいいですよ」
 と奥さんにすすめていた。
 ところが、組んだ足がほぐされた途端、若い男はパッチリ目を開き、突然
「全部私が食べますからご心配なく」
 と言い放ち、あっけにとられる速さで、ぺろりと食べたのだ。


 私は助っ人の男性が、短時間で処置をする素早い技に大いに感心し、
「このお店は、看護師も置いているのですか」
 と店の人に聞いた。すると突然大活躍をした助っ人の男性が現れ、大きな声で、
「違います。違います。今やったのは私です。こうした処理専門の医者です。さっきからずっと見ていたのですが、これは危ないと思い飛び出したのです。東京で働く妻に会うため九州から、今日上京していたのです」という。

 これらの出来事が、妻も楽しかったのだろう、いろいろな料理を満喫していた。私もいつになく酒をのみ過ごす結果となった。帰りがけに、
「お店の雰囲気がガラッと変わり、楽しくなりましたね」
 と話すと、
「リーマンショックのとき、経営危機になりました。その時これではいけないと、皆で店の経営を見直した結果です」と話してくれた。
 コロナの影響で、数多くのお店がつらい思いをしている昨今だ。はじめに訪ねた鶏料理店も、このそば屋も、この時期満席の賑わいだ。多分勝ち組だろうと推測した。
 天災、人災を克服し生き延びるには、経営者、従業員の持つ知恵と努力が不可欠なのだとつくづく思った次第だ。

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