元気100教室 エッセイ・オピニオン

人間の良さ  廣川 登志男

「ハエ取り紙って何? おじいちゃん」

 1ヶ月ほど前の10月半ばだったように記憶している。テレビにハエ取り紙が映っていて、遊びに来ていた孫娘から思いがけず問いかけられた。

「そうだねー。昔、ジイジが小学生の頃にはたくさんのハエが家の中を飛んでいたんだよ。お便所などで育って、汚いバイ菌を足にくっつけては、食べ物にたかっていたんだ。ハエ取り紙は、そんなハエをくっつけて退治するために天井からぶら下げていたんだよ」
「へー、そうなの。うちのトイレには、ハエなんかいないよ」
 私が小学校の時というと、ほぼ60年前になる。その当時は水洗トイレではなくボットン便所だった。
 ハエなどそこら中にいて、食事時など大変だった。
 ところが、今の時代、一匹のハエでも見つけようものなら、追い払うのに大騒ぎだ。たった60年前の話なのだが、その歳月の重さに驚いてしまう。

 60年前というと昭和35年の頃だ。前年には、明仁親王(現上皇)のご成婚中継放送があった。我家には、すでに白黒テレビがあったので、家族に加え近所の友達やその親御さんなどが我家に集まってテレビを見ていた。
 それに、プロレスの力道山、巨人の長嶋や王なども友達と見ていた。昭和三十九年の東京オリンピックのときは、カラーテレビに替わっていた。たった五年なのに、白黒テレビからカラーテレビに進化した。

 当時、クーラーや自動車を含めた「新三種の神器」が世の中に出回っていたが、今思えば、随分と時代遅れの製品だ。
 クーラーはエアコンに替わり、自動車は電気で走るようになり、もうすぐ自動運転になろうとしている。ボットン便所は、60年たった今では水洗トイレ・ウォッシュレットになっている。

 私が大学生の時は計算尺だったが、今ではパソコンにインターネットと、生活がどんどん便利になった。もう60年前には戻りようがない。

 これが大昔の時代となるとどうなのだろう。最近の私は、遺跡や土偶に興味を持ち、木更津の金鈴塚古墳を訪ねたり、講演会に参加したりしている。千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館へは7、8回訪れている。土偶や埴輪を眺め、古代の歴史も勉強したが、当時の実生活などは、当たり前だが想像できない。


 今年8月、八ヶ岳ふもとに尖石(とがりいし)遺跡があることを知った。国の特別史跡だという。縄文時代のもので、実際に訪れると、尖った石(尖石)が、地面から顔を出している。高さ一メートルほどの三角錐の形をしている。肩部に樋状の溝があり磨かれているので、石器を研いだ砥石だろうといわれている。地下にどれくらい埋まっているのかは調べられないそうだ。付近には竪穴式住居跡が33ヶ所見つかっている。

 尖石考古館には、いずれも国宝の「縄文のビーナス」と「仮面の女神」の土偶が展示されている。現在、国宝の土偶は、全国で5体あり、そのうちの二体がここ尖石にある。何回も訪れている八ヶ岳だが、このような遺跡があることにどうして気づかなかったのか、不思議でならない。

 縄文時代は、BC1万年からBC300年までの約1万年の長きにわたる。この時代の特徴は、氷期が終り、現代の自然環境と基本的に同じであり、日本列島も形成されていた。

 マンモスやナウマンゾウなどの大型獣は絶滅し、中・小型獣が主となり、広葉樹林も形成された。現在よりも温かく、四季もあり、争いごとのない住みやすい環境だったと、遺跡などの調査で判明している。

 確かに、縄文以前の石器時代と比べると、服を編む技術を会得し、匙や皿をつくり、10畳くらいの広さに家族四人ほどが暮らせる屋根付きの竪穴式住居を建てるなど、長い年月をかけて進化してきたが、その実生活は、現代の我々には想像の域を超えて、大変な生活だったろうと思う。

 しかし、よく考えなければならない。我々は、過去の時代の生活レベルをみて大変だったろうと同情するが、実は、その時代の人たちは「今ほど幸せなときはない」と思っていたのではないだろうか。

 いつの時代もそうだと思うが、その時代を生きている人にとって、「素晴らしいかも知れない未来の生活」を実感として感じることはできない。
 逆に、すでに自らが実感してきた「ひと昔まえの生活」と比べることで、現在は幸福な良い時代だと感じているのに違いない。私自身、そう思ってきた。

 過去を振り返って不便だとか、そんな生活は耐えられないと言うのは、今を生きる自分たちの驕りだ。先人達は、一歩一歩地道な努力をして今の生活レベルに進化させてきた。まさに、先人達の努力に敬意を払わなければ罰が当たる。

 縄文時代の人たちも「自分たちはこんなに良い時代を過ごさせてもらっている」と、その時代に感謝し、さらに改善の努力をしてきたのだろう。
 それが、動物とは違う「人間の良さ」なのだと思う。

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