A038-元気100教室 エッセイ・オピニオン

うた日記の思い出 武智 康子

 私は、先週妹の招きで13年ぶりに鎌倉に出向いた。

 駅前は、コンコースにビルが立ち並び、一見、都会の駅前と変わらぬが、一歩住宅街に入ると細い道の両側には、蔦の絡まる塀の家など戸建ての家並みが続き、昔ながらの風景が見られて懐かしかった。

 私と妹は、まず鎌倉山の中腹にある鎌倉文学館に向かった。文学館の建物は、旧前田侯爵の別邸である。緑に囲まれた坂道を登りきると、木造の洋館造りの文学館に着いた。

 ここには、川端康成をはじめ里見弴など、鎌倉を愛した多くの文豪たちの作品や自筆の原稿などが展示されている。
 原稿を見ていて、気づいたことが二つある。

 一つは、川端康成をはじめ文豪たちは、意外に女性的な柔らかな字を書く人が多い。それだけ心が繊細で柔軟であったのだろうか。
 川端の「雪国」や「伊豆の踊り子」にも、それが表れているように感じる。
 もう一つは、原稿用紙が基本は同じであるが、時代によって少しずつ違っているのに気付いた。面白い発見だった。

 そして、四つ目の部屋に入ったとき、私は、高浜虚子の句集を見つけた。その句集をパラパラと見ていて、ふと、私の頭の中に子供時代のことが、浮かんだ。

 それは、私が小学校4年生か5年生のころだった。私より一回り年上の従姉の家に行ったとき、従姉の部屋で高浜虚子の句集と与謝野晶子の歌集をみたのである。

 すべてが「五、七」調の軽快なリズムにのった表現の俳句や短歌だったのだ。私は、内容はよくわからないが、初めて出会ったこの軽快なリズムに、子供心に魅了されたのだった。
 わずか10歳足らずの私には、俳句に季語があることも、三十一文字が和歌であることも知らなかったのだが、ただ、そのリズムに興味をもったのだった。

 当時、日記を書くことを宿題として出されていた私は、その日の出来事を一つ取り上げて「五、七」調の俳句や短歌の形で表現して、「うた日記」として先生に提出したのである。

 先生もびっくりなさったようだったが、俳句には、季語があることを教えてくださった。だが、返却されたノートには、次の一句(実は短歌にも一つ)に三重丸が付けられ、「優」と書かれていた。その句は


「 かんなくず 積んで帰るや 夕暮れの道 」


 まだ、戦後間もないころで、疎開先の小学校に通っていた時である。
 疎開先の吉井町には、材木問屋が多くあり、製材所が町はずれに何軒もあった。七輪やかまどの火を起こすのに「かんなくず」はとても役に立ったのだ。私は、その日も学校から帰ると、大きな豆米袋を持って町はずれの製材所に大人の自転車を横乗りして、お使いに行ったのだ。

 その様子を「五、七、五」に詠んだのだった。

 四人兄弟姉妹の二番目で長女である私は、妹や弟の子守りはもちろん母の手伝いをするのは、当たり前の時代だった。先生は、季語がなくとも日記としてとらえ、私の母へのお手伝いをほめてくださったのだろうか。

 私は、初めて作った句に「優」をつけてくださったので、余程嬉しかったのか家族に自慢をしたことを覚えている。それ以来、何かにつけ家族の語り草になっていったのだった。

 文学館で四つの部屋を見終わると、テラスでお茶を飲みながら休憩をした。その時、この句のことを妹に話すと、現場を知る由もないはずの妹でさえ、この句をうっすらとだが、覚えてくれていたのには驚いた。

 大げさだが、この私のたわいもない句は、家族の絆を作っていったのだろうか、とさえ感じた。
 私と妹は、しばらくの間、外の景色に浸った。

 文学館のテラスから見下ろす森と、その向こうに見える相模湾の海が夕日に輝いていて、とても美しかった。

 いつも高層ビルばかり見ている私には、この静けさと緑に包まれた鎌倉に、昔も今も文豪たちが集まる気持ちがわかるような気がした。
 それから間もなく、私たちは夕日を背に鎌倉山を下った。

            Google写真・フリーより

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