【元気に百歳】 ベルリンの壁 武智 康子
2020年正月、世界各地の新年の様子が報じられていた。その中に、ベルリンのブランデンブルグの門前で、新年を祝うドイツの若者たちの姿があった。
この門前には30年前まで、東西冷戦の象徴と言われた155キロメートルに渡る壁があったのだ。
1989年11月9日、東ドイツの民主化運動によってその壁が崩壊し、自由を求めそれを信じて多くの人が東側から西側に移入した。
そして、1990年10月3日、ドイツは再び一つの国になった。
その翌年の春、私たち夫婦はベルリンに滞在していた。
学会終了後、ベルリン大学のマトロフ教授夫妻とともに、ベルリンの壁があった所に行った。壁は、粉々に壊され、小さな破片がまだ転がってはいたが、既に、ベンツセンターとソニーセンターの工事が、始まりかけていた。私たちはその脇の検問所を通った。
東側に入ってみると、何だかガランとしていて、人通りも少なくアパートが3、4棟建っていて、遠くに列車の小さな駅が見えた。
商店が並ぶ賑やかな西ベルリンとは雲泥の差があった。
私たちは、30分程歩き回ったが、何だか侘しさを感じて西側に戻ったことを覚えている。そして、出口の所の小さな土産屋で、飾り物用として形の良い壁の破片を売っていたので、記念に一つ買った。確か10マルクはしなかったと思う。
それから5年後、夫と私は、ドイツ、ベルギー、オランダの国境の三角点に位置する、中世の名残が残る都市アーヘンを訪問する機会があった。
夫は、アーヘン工科大学での講演後、ブレック教授からベルリンが最近少し変わってきたことを聞いた。そこで、当時たまたまアーヘン工科大学に留学していた次男と一緒に、三人でベルリンを訪ねた。
旧西側では、さらに賑やかになり、メインストリートで同性愛者の行進が行われていたことを覚えている。
私たちは、ブランデンブルグ門を目指した。既に、検問もなく歩いて旧東側に入った。そこで目にしたのは、冷戦時に、壁を乗り越えようとして、射殺された旧東側の人たちのお墓だった。私は思わず手を合わせた。
インフラも少し整備され、広い道路わきに小さなカフェがあった。喉が渇いたので、ちょっと立ち寄ってみた。飲み物は、全て缶入りのものだけだった。
私は、トイレを借りた。ドアを開けて驚いた。隅にバケツに水が入れてあり、柄のない器が置かれていた。形は、水洗トイレだが、「水が出ないのだ」と私は直感した。
よく見ると、窓ガラスも割れたままである。私は、緊張してしまった。
まだまだ、旧東側は、発展が遅れていることを、身をもって感じた瞬間だった。
後に旧東ベルリンにあった美術館などの文化遺産の建物が、危険な状態にあることも報道で知った。
社会主義独裁政権下では、お互いの競争の原理がなく経済の発展が遅れてしまったのであろう。
ベルリンの壁崩壊後、30年経った今、西側企業の投資や連帯税の国民の負担などで、旧東側地域の経済水準の向上もみられ、インフラも整備された。
ただ、旧東側地域では、半分強の市民が自らを「二級市民」と言っているそうだ。現在、ドイツでは企業も教育も行政も指導的な立場の人は、旧西側の出身者が大半を占めているそうである。
旧西側の制度に飲み込まれてしまった旧東側の人たちは、大混乱の中、努力する力がなかったのだろうか。
いや、メルケル首相のような優秀な人材もいる。彼女は、旧東側出身の物理学者である。長い間、ドイツの首相として世界の首相の中でも、引けを取らない活躍をしている。
一人一人は、立派な人間であっても、生まれ育った環境から抜け出すことができなかった人たちも多いのかもしれない。
スポーツの世界においても、ドーピング違反が多いのは、旧東側の選手である。何故だろうか。
思い当たる節もある。
私は、スポーツは、真の身体と心体で競ってこそ、意味があると思っている。
ベルリンの壁が崩壊して30年、今、世界の五大陸のあちこちで、火種がくすぶっている。
私は、この令和の新年にあたって、また、冷戦の時代が将来も来ないことを、真に願ってやまない。
イラスト:Googleイラスト・フリーより