A038-元気100教室 エッセイ・オピニオン

心に残った話  吉田 年男

 日曜の昼下がり、いきつけの理髪店に電話を掛けた。「今、大丈夫?」「大丈夫です」これだけの会話で予約OKなのだが、理髪店までは我が家から意外と遠くて、歩いて15分はかかる。

 店のご主人とは、「環七通り」近くに社宅住まいをしていた時からの付き合いで、四十年近くは経過している。

 お店は道路より一段低くなっている。入って右側一面が鏡で、その前に回転椅子が三台等間隔に並んでいる。かれは仲良く奥様と二人で切り盛りをしている。
「真ん中の椅子にどうぞ」
 奥様に言われて無言で回転いすに座る。手際よく背もたれを倒して、天井を見たままの状態で、ぐるりと180向きが変える。

 頭が洗面台の定位置に止まると、奥さんが、「痒いところはない?」 と髪を洗ってくれる。あおむけに寝かされ、頭を洗ってもらう。この格好のときが一番リラックスできて、日常の煩わしいことなどが、不思議と消えてゆく感じがする。

 洗髪がおわると、ハサミと剃刀を使ってご主人が散髪をしてくれる。あいさつ代わりに彼が「いつもの通りで?」と一言言って作業が始まる。

「毎日どれくらい歩いている?」
「もうペットは飼わないの?」
「善福寺川公園の緑は、今が一番きれいだね」
 などと、ご主人とは他愛無い世間話をすることが多い。しかし今回は、ひげを剃ってもらっている時に、いつもと少し変わった調子で、彼が話を始めた。
「この商売は、ひとさまの身体に触るしごとなので、お客さんが時折見せる細かい所作を見逃せない」
「顔色をうかがいながらの作業だから、傍で見ているより、神経を使うよ」
「わからないかもしれないが、いつも細かな神経を使っているよ」
 と彼は呟くように言った。

 仕事は、何をやっても簡単ではないことはわかっているので、彼の話が初めは何を言っているのか、よくは理解できないでいた。

 彼は話を続けた。「お客さんのタイプは、大きく分けて二通りあって、理髪にできるだけ時間永くかけてほしいと思う人と、それとは反対に、出来るだけははやく済ませてほしいと思う人がいる」と言う。

 しかし、これは内面的なことなので口に出しては言う人は少ない。初対面のお客さんは、当然そんなことは言わないし、常連さんでも、その辺の心情については、はっきり面と向かって言う人は少ないと言う。

 この人はどちらなのかな? その辺の判断は、お客さんに接したときに、その人の仕草や態度を見て咄嗟に見極める。それがプロのする仕事だそうだ。

 永く理髪作業に携わっていてほしいと思うお客さんは、長ければ長いほど、自分に対して、丁寧に扱ってくれていると思うらしい。また、それとは逆に、早く終わらせてほしいと思っているお客さんは、作業のスピード感こそが最高のサービスだと考えるらしい。

 人はそれぞれで、確かにその辺の微妙な感情は、わかるような気がする。医者と患者の間でも、お互いに心を読むには時間がかかる。今はパソコンの画面ばかり観ていて、患者の顔をみない医者もいる。患者の身体に全く触らないで診察を終えてしまい、全くコミュニケーションの足りないケースもよくある。

 理髪店で、お客さんに二つのタイプがあると聞いたとき、この感覚は医者と同じで、人の身体を触る仕事に携わってみないと、理解できないのかなと思った。と同時に彼の話しぶりから、なぜかこの話は新鮮で心に残った。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

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