A038-元気100教室 エッセイ・オピニオン

曲がったキュウリ 筒井 隆一

 釜に湯を沸かしてから畑に出て、実ったトウモロコシと枝豆を取り、それをその場で茹でて食べるのは最高の贅沢だ、と言われている。

 大型連休の、爽やかな晴れ間を見計らって、家内と二人で農園に出かけた。園主の指導のもとに、選ばれた種と苗、肥料を使って、正しい手順で野菜作りをする体験農園通いも、もう二十数年になる。

 今日の作業は、先日の講習会で指導された、トウモロコシ、大根、カブの間引きと追肥、そして枝豆の根切りである。夏の野菜は、この時期の丹精が収穫時にものをいう。中でも、トウモロコシ、枝豆は、手入れ次第で、口では言い表せないほど、甘くて美味しくなるのだ。

 ところで最近は、夏野菜が冬に、冬野菜が夏の店先に並んでいる。それが当たり前になっているようだ。しかも、その季節外れの野菜が、売り場では主役面をしており、値段も高い。
 時期外れの野菜が年中食べられるのは、ある意味では魅力かもしれないが、どう考えればいいのだろうか。食材に対する季節感が失われ、トウモロコシや枝豆は冬の野菜だ、と思い込む子供も出てくるかも知れない。

 一方東京を離れ、群馬や栃木でゴルフをした帰りに、その土地の農協の直売店や、道の駅に立ち寄ってみると、曲がったキュウリやナス、ひび割れたトマトなどが並んでいる。家の近所のスーパーなどで売られる野菜と違って、不揃いで見てくれは良くないが、昔ながらの新鮮でなつかしい味だ。値段も安い。

 曲がったキュウリが、なぜ商品価値が無いのか、どうすれば高く売れるのか、を考えてみると、どうやら形をそろえることが重要らしい。見栄えは無論のこと、箱詰めする時に、長さ、太さが揃っていれば、効率的に、収納できるからだろう。

 子供の頃味わったキュウリ独特の青臭さや、太陽を浴びたトマトの香りは、どこに行ってしまったのだろう。形と大きさをそろえるために、本来の味まで無視されてしまった野菜は、恰好や見てくれだけが重要視されるのだろうか。

 長年一緒にフルートを吹き、ともに例会、発表会を続けている笛仲間との飲み会でも、不揃い野菜の話題が出た。
「笛の世界でも同じことが言われている」
 と言い出した男は農学部出身で、かつ大学オーケストラの団員としてフルートを吹いていた。
「どんな曲でも、同じ息遣いで平坦な吹き方しかしない笛吹きが、最近増えていますね」
「リズムを犠牲にして淡々と歌い上げるのは、ある意味では時代に合った魅力的な演奏かも知れないけれど、個性が感じられず、俺の吹き方とは合わないな」
「最近の演奏の流れを、どう考えればいいのでしょうかね」
 私には聴き分け、分析する能力もない。
 しかし彼の話では、地方に出て、その土地のフルート愛好家の演奏を聴くと、昔ながらの、感じたまま、思ったままに、個性を主張した純粋な演奏に触れることができるという。

「地方で聴くと、都会で耳にする、妙に洗練された気取った演奏とは違って、素朴さがなつかしいですね」
「そういう純粋で素朴、かつ個性的な演奏が理解されず、平板で単調な演奏が好まれる時代なのかな」
 全員が同じ、という今の義務教育基本方針に通じるのかもしれない。不揃いの野菜から現代のフルートの演奏法まで話が飛んだが、
「調理すればキュウリの曲がりなど分からなくなる。商業主義に踊らされることなく、美味しい新鮮な野菜を食べようよ」
 ということで飲み会は打ち上げになった。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

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