A038-元気100教室 エッセイ・オピニオン

令和の花束   武智 康子

 令和元年五月二日の朝、日比谷花壇から大きな箱に入った花が届いた。

 私は、「母の日には早すぎるし、私の今年の誕生日は過ぎたし、今頃、どうしてお花が届くのだろう。いったい誰からの贈り物だろう」と不思議に思った。
 とにかく花を受け取った。伝票を見て驚いた。(U S A)という大きな文字が私の眼に飛び込んだのだ。よく見ると、贈り主は、ロスアンゼルスに住む教え子からだった。

 そっと箱を開けた。中には、ピンクの薔薇を中心に淡いピンクとグリーンのカーネーション、それに濃い紫と白の小花を散らして、それらを大きな葉っぱ五枚で包み込んだ素敵な花束が入っていた。手紙も添えられていた。

「先生、お元気ですか。日本の新しい年をお祝いします。ロスアンゼルスでも、日本人と一緒にみんなでお祝いしています」
 と、丁寧な日本語で書かれていた。

 そう、改元のお祝いの花束だったのだ。私は、相変わらずよく気が利く彼女だと感心した。
 その教え子とは、百歳クラブのクラブ誌十七号で、「日本のお母さんへ」というサブタイトルつきの手紙を、紹介したことがある彼女である。

 彼女は、京都大学経済学部の卒業式を待つだけになった三月初め、両親が滞在しているロスアンゼルスに十日間ばかりの予定で、渡米したのだ。だが、いよいよ日本に戻ろうとした時、米国を出国できなかった。彼女は、泣きながら日本語学校で担任だった私に、電話をかけてきた。手紙も頻繁に来た。パソコンがまだ普及していない時代だった。

 大使館や大学にも相談したが、私にはどうすることも出来なかった。理由もわからなかった。今は、家族全員が米国籍だが、当時、彼女は、大連出身の中国籍だった。丁度、香港の返還が成される時代だった。関係があるかどうかはわからない。

 私は、両親の下、米国のビジネススクールで、もう一度学び、会計士の資格を取得して、米国で仕事をすることを勧めた。それから半年ぐらい何も連絡がなかった。心配していたところ、カリフォルニア大学のビジネススクールで学び始めたとの手紙を受け取り、安心した。

 努力家の彼女は、その後米国の会計士の資格も取得して、順調に会計士の道を歩んでいる。現在は独立し、ロスアンゼルスの市内で、国際弁護士のご主人とともにオフィスを構えて、米、日、中の三ヶ国語を使って多くの顧客に対応しているとのことだ。今回は、彼女のきめ細かい心遣いから、きっと日本人の顧客には、花束を贈っただろうと、私は想像している。

 彼女は、「令和」の意味も理解していた。英語では「Beautiful Harmony」 というそうだ。彼女は、日本を離れて二十年近く経つのに、日本の文化を忘れていなかった。私は嬉しかった。さっそく、メールではなく、直筆のお礼の手紙を送った。

 実は、平成二十八年の秋、彼女はやっと訪日の機会を得て、約十六年ぶりに日本を訪れた。私は、東京のプリンスホテルで日本到着の翌日と、帰国前の日と二回、彼女の一家と会食をした。
 彼女の明るく真っ直ぐな性格は少しも変わっていなかった。むしろ、私の方が変わっているはずだが、彼女は「先生は、年をとっても若い。少しも変わっていない」とお世辞をいってくれた。その言葉は、お世辞とわかっていても私を元気付けてくれた。

 彼女の夫も立派な紳士で、中学生と小学生の二人の息子達も素直に育っていて、素敵な家族だった。
 なかでも、私が一番嬉しかったのは、彼女が京都大学で十六年ぶりに、真の卒業証書を受け取ったことだった。それまでは卒業証明書だけだったそうだ。その卒業証書を見せてくれた。私は、彼女にとっては、努力と苦労が報われた一瞬だっただろうと思い、心から「おめでとう」と言って労った。これからも遠く日本から、エールを送りたいと思っている。

 現在、元号があるのは世界中で日本だけだが、これは日本の文化であり、ある出来事を知るのに、すぐにその時代背景も頭に浮かぶと言う便利さも持っている。今回のように、お祝いで改元が迎えられるのは、気持ちを一新する意味でも素晴らしいことだと思う。

 令和の時代が、真に「Beautiful Harmony」であることを願ってやまない。


         イラスト:Googleイラスト・フリーより  

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