A038-元気100教室 エッセイ・オピニオン

いい人生だった 金田 絢子

 昭和13年生まれの私は、一つから4つ半まで父親の任地、北京にくらした。北京から帰国した17年の9月に弟が生まれた。

 今年(平成30年)はまさに酷暑の夏であるが、昭和17年も記録的な暑さだったらしい。身重の母が日に何べんも水を浴びたというエピソードがのこっている。私は年子の兄と、弟にはさまれた一人娘として、甘やかされて育った。

 疎開先きから東京に帰ってきて、近くの小学校に1年ほど通い、5年生から女子短大と大学が併設されたG校に学んだ。
 因みに、中・高は男女別学であった。当時、女子高等科を卒業後の進路は、大学、短大、社会人の割合が三分の一ずつと均等していた。私は、短大にすすんだ。

 短大に入って間もない日曜日、高等科を出て社会人になっていた親友と二人で、大学のイベントに参加した。ファイアストームを囲んで、フォークダンスを踊った。

 友人は私の一つ前の列にいた。私のとなりの男性は、曲がとぎれてつないだ手が離れる度毎に、手の平の汗をハンカチでぬぐった。友人が小走りにきて、耳元にささやいた。
「ステキ。石濱朗みたいね」
 あとで知ったが、彼はR大の学生で、数人の仲間とわが母校のお祭りに来ていたのである。

 私と友人は、フォークダンスが終わって早々にひきあげた。駅に近づくと“朗くん”を中心にして、男子のかたまりがこちらを見ている。
 私たち、いや私を待ち受けていたのだ。これも、少し経ってからわかったのだが、とくに感動はしなかった。“私は可愛い”とうぬぼれているわりには、異性への関心はないに等しかった。端的に真実をのべるならば、ただぼんくらなだけであった。


 ところが、その私が短大を卒業した翌年、まさかの結婚をしたのである。世の中、何が起こるかわからない。
 間をとりもって下さったのは、北京時代のお仲間の、弁護士夫人Nさんである。初対面の日、Nさん邸へ、私は母と出かけたが、相手は一人でやってきた。
 男性は、背は中くらい、ちょっぴり禿げていて頗る調子がよかった。驚くほど物知りでもあった。つき合っているうちに、頭が良いこともわかった。それが決め手だといえばきこえはいいが、調子のよさにのせられたと見る方があたっている。

 娘たちは、夫がまだ元気なころ、
「お父さんに上手に言いくるめられて、お母さんたら、お父さんひと筋なんだから」
 と揶揄したものだ。

 今年、暑い暑い7月、合間に台風がきて一日だけ涼しい日が訪れた。悪天候を口実に私は一歩も外へ出なかった。折からの風にのって、夫の声がきこえてきた。

 最後の入院の前日のことである。夫はいつものように、介護ベッドに半身を起こし私たちに話しかけていた。体力はとみに衰え、すでに、予定を書き込む手帳に、ちぢこまった字しか書けなかった。“もう長くない”と本人が、誰より自覚していただろう。何の話のつづきか忘れたが、
「いい人生だった」
 と夫が言った。夫がこの言葉を口にしたのは初めてではないが、死の予感も手伝ってか、殊に私の胸にしみた。自分自身に聞かせる風にも
「みんなのおかげだよ」
 と言っているようでもあった。
 ふと耳を澄ますと、風の音、雨の音にまじって
「ただいま」
 爽やかな夫の声がする。うれしくなって玄関へ走った日々が甦える。
 3人の娘や孫たちとのあれこれ、数々の出会い、ちょっとした行違い、人見知りの私。全部ひっくるめて懐しい。私も命の瀬戸ぎわに、
「いい人生だった」
 と言ってみたい。

           イラスト:Googleイラスト・フリーより

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