A038-元気100教室 エッセイ・オピニオン

我家の教訓 青山貴文

 吹き抜けの玄関を内から見上げると、二段に折れ曲がった階段が登っている。
 その中段の踊り場の壁には、『我家の教訓』という標語がある。A3の大きさのカレンダーの裏面を利用して、墨汁で大書している。

 この標語の3項の内、最初の2項「第一、健康」と「第二、努力」は、小学校の高学年の頃
からそう思っていた。自分の生きる大切な願いとして心の中に納めていた。

 私が小学生のころ、父は仕事がうまくいかず、酒とたばこで憂さを晴らし、不健康な生活をしていた。その影響も多分にあり、旧家出身の母は心身を病み、寝込むことが多かった。そこで病気がちの両親が反面教師となり、健康は最も大切なことだと思うようになった。

 学校では、日本は資源が乏しい国なので、原料を輸入し、それらを加工して輸出しないと外国に負けてしまうと教わった。よって、日本人は、他の国の人たちが作れないような精巧な機械を工夫して作って行かなければならない、そのためにはいろいろ努力しなければならない。この努力は健康の次に大切なものだと考えた。

 小学校の卒業の時、友達同士で、自分の願いを相手のサイン帳に書いた。「第一健康 第二努力」と、同じ文句をクラスの殆どの人に、書いたものだ。

 中学、高校と順調に進んだが、大学にはスムーズに進めなかった。父の失業と重なり、受験勉強だけが出来る環境ではなかった。
 酒屋の住み込み店員として、午前中に勉強をさせてもらい、何とか大学に入った。高校までは痩せていたが、住み込みで力仕事が多かったので、体力に自信がもてるようになった。よく食べ、よく学んだ。期末試験も、あくまで健康第一と、徹夜などせず、さっさと寝てしまう。
 よって成績も中くらいで、優等生とは縁遠いものであった。このとき、自分の生きる大切な指針としてこの2項目が心の中に定着した。


 就職は、努力すればなんとかなると、皆が敬遠する重厚長大の鉄鋼会社を希望し、熊谷工場に同期11人と共に配属された。
 同期の中に勤勉で、あまり寝ずに仕事一途に頑張っていた一人が夜勤明けに、倒れて急死した。自分の生きるうえで大切な教訓となった。それから、健康が絶対的なものとなった。
 結婚して、3歳ちがいの2人の娘を授かった。下の子が小学校に行くようになって、この2項目を我家の教訓として、壁に掛けた。

 妻や子供たちは、それについて何も言わなかった。
「お父さんがまた好きな標語を壁に掛けている」と思っていたようだ。

 子供たちは、それぞれ小学校6年と中学校3年になり、普段は仲が良いが、時に自己主張のあまり喧嘩もする。我々夫婦も、子供の教育のことや、いろいろのことで意見が合わず口論する。お互い自己主張し、相手のことをあまり考えない。
 各自が自分の意見を押しとうそうとしていた。


 私は、会社でも、自分の意見に固守して、突き進み、周りから孤立することもあった。いろいろの人と和していかねば、大きな仕事はできない。
 その都度、たとえば「短期は損気」、「人の一生は重荷を背負い・・・徳川家康」、あるいは「人は書くことにより確かになる」などと壁に張り出した。

 そのころ、家を改築し、立川の両親を呼び寄せ、同居するようになった。親とは言え、第三者が加わると、家の中の雰囲気がどうもしっくりいかない。どうも何かが足りない。この2項目の教訓だけでは、大切なことが欠けているのではないかと思うようになった。

 子供たちは、身体も大きくなり、健康で、頑張りの効く人間に育ってきているようだった。しかし、さらに友達同志と慈しみあっていかなければならない、さらには、年老いた祖父母を思いやるように、子供たちを導いていかなければならないと感じた。

 今から丁度30年前の正月、「第三、思いやり」を追加し、新しい「我家の教訓」とした。そしてカレンダーの裏紙に大書して壁に掛けた。

 『我家の教訓」
    第一、 健康
    第二、 努力
    第三、 思いやり
   
              平成元年 正月

 それから、十数年後、父母は他界し、さらに数年して子供たちも巣立っていった。
 この教訓は、時の経過とともに紙が変色すると、その都度、和机に座り、習字の練習とばかりに、新しい真っ白な裏紙に同文を書き、飾っている。
 我々老夫婦にとって、第三項目が、いやに目につくようになってきた。

イラスト:Googleイラスト・フリーより
 

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