元気100教室 エッセイ・オピニオン

東洋のシンドラー  桑田 冨三子

 久しぶりに30ほど年下の友人・満子から電話があった。

 数年前、満子は「美智子皇后」という本を婦人公論社から出したが、その時に美智子さまの学生時代の話などをいろいろと教えたりして、それ以来、付き合っている元テレビ局のプロデューサーである。

 藪から棒に「ねえ、李徳全(りとくぜん)て知ってる?」という。

「知ってるわよ。ずいぶん昔のことだけど、中国のおばさんでしょ。」
「ああよかった。きっと知ってると思った。今、李徳全のことを調べて書いているの。日本とのつながりとしてエピソードを書くから、知ってることを全部教えて」


 東西冷戦のさなかの1950代前半、中国には多数の日本人帰国希望者が残っており、大きな問題になっていた。

 当時、日本が国交を持っていたのは台湾の中華民国であり、中国大陸の中華人民共和国とは外交関係がなく、民間の細いチャンネルではどうしようもなかった。
 この苦しい日中関係の壁に風穴をあけたのが一人の中国人女性であった。


 満子の話では、李徳全は大勢の戦争孤児たちのために保護施設を作ったり、戦後、大活躍をした人だそうだ。これらの活動が認められ新中国が誕生した折に衛生部長に選ばれた。

 中国の赤十字である紅十字会の会長になった李徳全は、人道主義精神と平和のために、日本人の引き揚げと戦犯問題解決に心をくだいたという。

 ながらく途絶えていた日中交流の先駆けとして、李徳全女史が日本へやってきたのは、1954年だった。中国紅十字会の代表・李徳全女史が持ってきたのは重厚な戦犯名簿であった。

 名簿は2冊に分かれており、一つは戦犯生存者1068名、もう一つは戦犯死亡者40名であった。名前、部隊名、階級、年齢、出身地などが詳細に記載されていた。


 李徳全は、戦犯の人、大部分と、帰国を希望する一般人2000人を、年内もしくは来春までに帰国できるようにする、と約束してくれた。
 李徳全の持ってきたニュースを聞きたくて詰め掛けていた留守家族たちにとって、つぎつぎに名を読み上げる係員の声は、まるで判決文であるかのような悲喜こもごもの現象を引き起こしていた。


 死亡した日本人戦犯40名のほうに、わたしの祖父、河本大作の名前があった。引揚げ船の入る舞鶴や佐世保の港に、いつ祖父は現れるかと待ちわびていた家族にとって、この李徳全のもたらした突然の訃報は一家にとって灯りが消えてしまったような失望を呼び起こした。

 家族は一家連名で、せめてお骨だけでもと李徳全女史に手紙を書いた。長い間、沙汰は無かった。しかし、ある日、舞鶴港に停泊している船へ、すぐ来るように。荷物を渡す、と短い電報が来た。

 行ってみると渡された物は、河本大作の遺骨と書かれた大きな蓋付きの缶と、なんと、古ぼけてはいるが、見覚えのある祖父の赤革のシューバであった。


 わたしのかかわったエピソードはそれだけだった。
 でも、BC級戦犯も全員帰ってきたし、これも精力的に中国国内に抑留されていた日本人帰還事業に精力を費やした李徳全さんのおかげだと思う。

 今、日本には日中友好を切に望む人が大勢いるが、その人たちの間ではこの李徳全こそ、東洋のシンドラ―だ、と言われている。

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