歴史とは自国の都合だけでうごかない。 世界情勢と連動している
1853年といえば、世界史では有名なクリミア戦争(野戦のナイチンゲールが活躍)がぼっ発し、3年間つづいた。英仏とロシアが大戦争をはじめ、その戦火がアジアにも拡大してきた。
鎖国とは世界にブラインドを下ろすことではない。積極的に世界の情報を取りにいかないと危険きわまる。阿部正弘は老中首座(現・内閣総理大臣)になったときから、アジアで発行されている英字新聞をオランダ語に翻訳させて(別段風説書)逐一、世界の動きをみていた。
――クリミア戦争に突入した欧州は、いま日本に派兵できない、清国が被ったアヘン戦争の二の舞にならないと阿部はみなした。
嘉永6(1853)年6月に米国のペリー提督が浦賀に来航し、翌7月にはロシア帝国のプチャーチンが長崎にきた。ともに黒船(蒸気船)を従えていた。
――ここは千載(せんざい)一遇(いちぐう)のチャンスだ。
鎖国から開国と舵を切った。翌七年三月に、まずクリミア戦争と無縁なアメリカと日米和親条約をむすんだ。半年後の八月、イギリスがカムチャッカ半島に領土的な野心からロシア軍を追撃してアジアに出兵してきた。かれらは長崎に寄港し、幕府に燃料・食料の供給基地として、長崎・函館の港の利用をもとめた。
「米国と同文ならば、和親条約を結んでもよい。さもなければ、貴国の軍艦がわが国に立ち寄ることはいっさい断る」
長崎奉行の水野忠徳(ただのり)が高飛車な姿勢を貫いた。イギリス艦隊司令・スターリングは、日本側の条件をうけ入れた。これに怒ったのが、東洋を管轄するイギリス香港総督で、
「通商規定の条文がゼロで、日本の港では日本の法律に従うと明記されている。屈辱だ」
と破棄の添え書きをつけて、イギリス政府にその条約文を送った。
イギリス国会はクリミア戦争に勝つことが最優先だといい、批准してしまったのだ。
その翌安政二年、クリミア戦争の敗戦が濃厚なロシアにたいし、日本側は有利な立場で、「日露和親条約」をむすび択捉・国後を日本領土とした。
阿部政権は、クリミア戦争が日本に有利な風だととらえて米、英、露の三か国の大国と和親=平和条約を一気に結んだのである。
わが国の歴史書となると、嘉永6(1853)年といえば、世界最大のクリミア戦争をまったく教えず、アメリカの黒船が来航したといい、鬼のような奇異なペリー提督のかわら版の顔をのせる。
そのうえ狂歌『泰平(たいへい)の眠りを覚ます上喜撰(かみきせん)たった四はいで夜も寝られず』と記す。それは明治10年に創作された狂歌だと、いまや化けの皮がはがされた。
☆
令和4年のいま、ウクライナ戦争が世界中に、武器供与、経済封鎖、石油、穀物輸入など影響をおよぼしている。戦争当事者でなくとも、アフリカは食糧危機に直面しているし、世界のいずこの国も、無関心でいられない。
1853年に勃発したクリミア戦争では、勝利国となった英仏も、敗戦国のロシアも、非戦の米国も、わが国が鎖国だろうが、関係なく、軍艦や商船でなんども来航している。
伊豆下田港では、なんとロシア海軍兵がフランス商船の掠奪の戦闘までしかけている。
日本の下田奉行は厳重な抗議をした。
クリミア戦争当事国の英・仏・露は、軍艦の燃料・食料の中継機能として、日本の港が喉から手がでるほど欲しかった。幕府はこの地の利で、外交交渉で優位な立場にいた。
ところが、下級藩士によって樹立された明治政府は、かつて上級武士が支配した徳川政権を恣意的(しいてき)に見下すために、
『徳川幕府はアメリカに蹂躙(じゅうりん)されて、砲弾(ほうだん)外交で開国されられた』
と歴史をねつ造した。
まさに幕末史のプロパガンダである。
そもそもペリー提督が江戸湾にやってくる七年前に、アメリカ東インド艦隊のピッドル提督が浦賀に米大統領の親書をもって来航している。
捕鯨船マンハッタン号、イギリス艦、デンマーク軍艦も来航している。幕末史は黒船以前の歴史から紡(つむ)がないと真実はみえない。