A033-「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより

南仙台で嫌われた芸州広島藩の愚行「白鳥事件」 山澤直行

 当研究会では、これまで神機隊を中心に、広島藩の活躍や美談を紹介してきました。ただ、官軍広島藩としての行動がすべて綺麗事ばかりではありませんでした。
 こんかいは宮城県南部に位置する柴田町(しばたまち)での出来事をご紹介します。

 慶応4年9月10日に仙台藩が降伏しました。柴田意広が領主を務める船岡(現:柴田町船岡)にも官軍がやってきて、一帯を制圧しました。
 そこには官軍として広島藩新整組も駐屯していました。新整組は岸九兵衛を隊長とした200名ほどの足軽組から選抜編成した広島藩の正規軍です。

 仙台を制圧されて以来、官軍の兵士たちの勝手なふるまいに、仙台藩の人々の心は暗く沈んでいました。
柴田町 白鳥事件 1.jpg  柴田領船岡という地域は、白鳥(しらとり)を尊霊(そんりょう・故人の霊魂を敬う)とし白鳥の殺傷を固く厳禁していました。
 駐屯する官軍の広島藩新整組の兵士たちが、白石川に舞い降りる白鳥の狩猟をおこなっていました。
「殺傷は止めてください。北から飛来してくる白鳥は私たちの先祖の御霊ですから」
 現地の人たちの嘆願にも耳をかすことなく、広島藩士の白鳥狩りが続いていました。

 そして、事件は10月23日に発生しました。

 柴田家家臣の小松亀之進、森玉蔵、島貫豊之進、森良治4人が阿武隈川にて雑魚を採っていたところ、またしても広島藩の白鳥の狩猟する現場を目撃します。
 それに憤った4人は、二手に分かれて近所へ猟銃を借りに走ります。島貫豊之進、森良治は借りる事が出来ませんでした。
白鳥事件 2.jpg 猟銃を借りる事ができたのが、小松亀之進と森玉蔵です。かれらは現場にもどり、まず森玉蔵が船に乗っていた広島藩の新整組兵士に対して発砲しました。
 銃弾は兵士に当たることなく、船をかすめただけでした。死傷者は出ませんでした。ところが、この発砲事件に対し広島藩側はこれを許さず、仙台藩に犯人の引き渡しを要求しました。

 主犯の森玉蔵と小松亀之進は捕まり、仙台へ護送することになりました。その道中で森玉蔵は逃走します。

 この事件の反響は大きくなり、責任追及が柴田意広へも及びます。翌月11月4日、小松亀之進は斬首され、逃げた森玉蔵の代わりに義兄の森文治が斬首されました。

 一方で戊辰戦争のさなかに、柴田家14代領主の柴田意広は秋田藩を手勢320人を率いて官軍を攻撃し、角間川(かくまがわ)の激戦で、大勝利を収めました。長州を中心とした官軍の損害は1日の戦闘としては最大でした。

 勝利した柴田意広は仙台に凱旋してきました。ところが柴田のもとに届いた連絡が、この白鳥事件でした。意広は愕然として肩を落としました。
白鳥事件 3.jpg 柴田は仙台藩に累が及ぶのを防ぐため、自身も「臣とものなせし事をはしらま弓引受なるも君とあるゆゑ」という辞世を遺して切腹します。
 そして、森玉蔵も翌年には捕まり、斬首されます。

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  その後、主君を亡くした柴田家家臣団は、亘理伊達家の協力を得て、現在の北海道伊達市に集団移住します。

 勝利した官軍の広島藩とはいえ、この行為は如何なものか、と考えさせられます。いまの「平和都市ひろしま」と謳う広島の対応としては、柴田町と北海道伊達市の二つの都市と友好提携するのも、一つの方法ではないのでしょうか。
 そして、美談だけではなく、このような広島藩の愚行も広島の郷土史として伝えなければいけないと思います。

          
 イラスト: 宮城県・柴田町HPの『柴田町の風景 2005年2月』より   


                            了

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