A033-「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより

RCCラジオ・放送 神機隊と渋沢平九郎 = 9月11日(土)

穂高健一の幕末・明治・大正の荒波から学べ!RCCラジオ・放送

 渋沢栄一が、パリ万博へ出席する慶喜の弟・清水昭武の随員としてフランスへ渡航することになった。当時の幕府の規則で、妻の弟・平九郎を渋沢家の見立養子にしていた。

 渋沢誠一郎(喜作、渋沢栄一の従兄弟)は、尾高新五郎(渋沢栄一の妻・千代の兄)、渋沢平九郎らは上野の彰義隊と決別し、新たに振武軍(しんぶぐん)を組織していた。
 総勢は約1500人になっていた。慶応4年5月18日に、飯能村(埼玉県)の能仁寺に移り、そこを本陣としていた。

 5月23日、新政府軍は飯能の振武軍を攻撃した。半日で決着した。

 神機隊の小隊長・藤田次郎が50人で、忍藩の藩兵を引きつれての夕方に飯能に着いた。戦争の決着がついていた。越生村(埼玉県・越生町)法恩寺(ほうおんじ)を陣にした。

 振武軍の落ち武者は、いくつかの集団に分かれて逃走している。神機隊は越生の宿泊地の周辺や、黒山三滝あたりの探索をしてほしい、と依頼がきた。

 遭遇したのが、副大将の渋沢平九郎だった。悲劇が起こった。


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